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2018/07/13 (Fri) 細菌戦の系譜!!


BS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」(前編)


BS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」(後編)


NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」

※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!

●731部隊について
「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」起こし
ナレーション
こうした中、大学への影響力を拡大したのが731部隊です。巨額の国家予算を与えられていたといいます。


テープの音声 検察側(ロシア語)
部隊の経費としていかなる金額が供出されていましたか。

テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
確実な数字はただいま記憶しておりませんが、だいたいの数字を申しますと昭和15年度におきましてはだいたい1000万円(現在の金額で約300億円)に近い予算が使われておったように記憶しております。

ナレーション
いまの金額で年間300億円の予算。それを動かしていたのが731部隊の部隊長・石井四郎でした。京大医学部出身の石井は母校の指導教官の一人だった戸田と関係を深めていました。戸田は石井と人事の話もしていたといいます。

戸田の弟子の回顧録【雑誌『国民衛生』】 
戸田先生が東京へ出て来られると石井君と3人でよく会談をした。研究の件もあれば人事の件もあり、先生はよく京大や若い人のために奔走された。そのため占領地の支那本土へも旅行された。




日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」

教えてゲンさんより
1940年、日本軍資料

1942年の細菌戦
*日本軍人証言  通常部隊の歩兵  嵐兵団歩兵第120連隊史
注:一般の日本兵は細菌戦を中国の作戦だと思っていたようです。
目指す衢州方面は、ペスト・コレラなどの悪疫が猖蕨獗を極めているとのことで、三種混合注射とかホ-ソウの接種を繰り返し受け、ほとんどの兵隊は化膿高熱で戦争前に病魔との闘いであった。・・・・
悪疫の流行に加えて敵の毒物謀略
(飲料水、飲食物に毒物を入れて飲食者の毒殺を計る)に対する警戒が幾度か報ぜられ、弾丸で死ぬか毒で死ぬか、戦々兢々、食事に箸をつける前に
色、匂い、味、煮炊きしたものかどうかなど吟味もまた戦争の一片であった。・・・・敵と戦い、水と戦い、そして「ペストあり」の貼り紙に驚かされながら、
最終目的衢州に肉薄したのは6月の中ごろであった。



『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶
2、満州天理村「生琉里」の誕生

≪2600(メートル距離)、一発撃て≫の号令。≪満州人が出て行った家を標的にし、野砲をどんどんぶっ放す。白い糸を引いて飛び、炸裂した≫(毎日新聞 1995年6月4日)

風間は語りながら目を落とした。自分たち子どもも、よくこれを真似たものだ、と。幼かった風間は何も分からず兵隊ごっこ繰り返した。風間には農作業をした記憶はほとんどない。兵士に憧れていたからだ。
「関東軍は匪賊の討伐演習で、天理村に1年に6,7回はやって来よった」


満洲天理村

海拉爾支部 谷崎等証言2017年12月18日



・731問題
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
国家の面子の為に、残虐な行為は隠蔽する??

黒い太陽№15



※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。

朝枝繁春の証言


日本は、あの侵略戦争の事を全く反省していない!!
ある政党は、あの侵略戦争を「自存自衛のための戦争」などと公然と言っている!!
裕仁は、東条や陸軍に、戦争責任を押し付け、
今の政府・医学界は、中国、アジア諸国で、戦争被害の後遺症に悩む人々を完全に無視している!!
人体実験、遺棄毒ガス弾、炭疽菌、ペスト菌等による被害者、慰安婦、空襲・虐殺・原爆等で被害にあった人々のPTSDなど。


日本国民だって例外ではない!!
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と新宿の軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故
また当時の新聞記事や調査において、
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??

「日本軍の毒ガス戦と軍需化学企業の戦争責任」


小津安二郎は、日中戦争で野戦ガス中隊に従軍し、鬼軍曹と呼ばれていた。
小津の作品には、汚いものを排除し、美しさのこだわりがあるという。
『東京物語』のヒロインだった原節子は、戦意高揚映画に数多く出演している。

Tokyo Story (1953)


(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)




『陸軍軍医学校50年史』(1936年)より

大牟田「爆発赤痢」事件

日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

小島三郎

紅白の殺戮者 昭和十一年浜松一中 毒大福もち事件
作者:久保 親弘
紅白の殺戮者                くぼちかひろ

第一〇章
患者側が必死の救護要請を行っている患家には,ちっとも巡回救護班が訪問せずに,すでに回復期に入っている患家には,巡回救護班が何回も訪れるという不具合も目に余った。
その結果,市役所,日赤,浜松一中などの各救護団の代表を衛戍病院に集めて,再度「医療統制会議」を行うこととなった。今度は全ての救護活動の指揮権は,山村軍医正が執る事になり,軍隊式の上意下達で,救護活動は一新された。
この段階で,推定患者数は二千有余名,内重症者五百名,死線を彷徨している者は一二〇~一三〇名と考えられていた。



※今、改めて考えると、やはりこの食中毒に軍医学校の関与があったのではないか?
※石井がわざわざやって来て、「人為的細菌感染の有無」を調べる??この食中毒のすごさから言って、普通では全くない!!軍医学校の関与が無かったのか?何で、糞便検査を一中生にはしなかったのか??
1936年にはハルピンの郊外平房に正式に関東軍防疫部(731部隊)が設立される。

※北野政次は最初から目星をつけていた?その前年にゲルトネル菌が食中毒が発生している?

小島三郎の記述


小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。


小島三郎

『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
メリットと業績

『日本細菌学会雑誌』32巻6号、1977年には「日本細菌学会(時によりこの名称とは異なる)」
の第1回(1927年)から第20回(1947年)までの講演の一覧がある。 それによるとゲルトネル菌とかサルモネラという言葉が登場するのは第9回(1935年)が最初である。この年は、ゲルトネル菌についての報告とサルモネラについての報告がそれぞれ1本ずつ行われている。翌年の第10回の学会では陸軍の西による鳥取での食中毒についての報告「ゲルトネル氏腸炎菌に依る食中毒」1本だけである。



『検証・中国における生体実験』(美馬聡昭著より)

小泉親彦と宮川米次の絆

六高では、小泉君は、二回目、私は、四回目の卒業生である。六校会を開いて東京で酒を飲んでも、いつでも小泉君は、大将になってやってくる。酒も非常に強かった。ご承知の通り、六高という高等学校は、酒を飲んではいけない学校であった。それをその当時から飲もうと行って、たいてい牛肉屋でやった。必ず四合びんから、コップでぐいっと飲むという恰好であった。しかし気にいらないと一滴も飲まない、そういうところは年をとってからでも同じであった。







※731部隊の前身である背陰河の部隊では、結核予防注射の人体実験が行われていた?
結核予防接種と人体実験

※日本は、731部隊での研究を白日の下にさらすべきである。

※1936年に起きた浜松の大福もち事件の経過
1936年5月10日 浜松一中で運動会が開かれる。
5月11日午後、食中毒発病
軍医学校では5月12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。

※本当に素早い軍医学校の対応ではないか??東京から浜松は当時列車でも時間はかかっただろう。
※小島三郎は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。
※前年の1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)小島が防研の嘱託になった年。
※果たしてこの食中毒はどのように発生したのだろうか?防疫研究室は関係していないのか??不思議なことに軍の関係者の感染者からは誰一人死亡したものが出ていない!!軍の謀略ではないのか??
※陸軍飛行第七聨隊が新たに浜松に開隊し,ついで高射砲第一聨隊も設置された。昭和八年になると浜松陸軍飛行学校が開校し,浜松は陸軍航空部隊のメッカとして,知られるようになった。浜松陸軍衛戍病院の場合,ほとんどの軍医は,飛行第七聨隊附か陸軍飛行学校附,もしくは高射砲第一聨隊附であった。
※小島三郎が、防疫研究室の嘱託になり、お金をもらって研究したという事は、細菌戦に大きくかかわっていたという事だろう!!
※ゲルトネル菌は、広東の8604部隊部隊で使用されたようだ。
8604部隊南支那派遣軍の防疫給水部の1課の丸山茂証言に、同僚がお粥にそれを混入して、多くの難民の中国人を殺害したという証言をしている。



・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤の原料を作ってニュージランドのメーカーを通じてアメリカ軍に提供されていた。アメリカの枯葉剤の3分の1は日本製だと言われている??
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大

※枯葉剤の製造では、ネットには、こんな記述もある。
731部隊直系のミドリ十字を内部に組み込んだ三菱ケミカルホールディングスの前身である三菱化成は、ヴェトナム戦争における枯れ葉剤作戦の主役、モンサント社と組んでいたのである。

毒入り油で手料理 母悔恨「知らなかった」「ごめんね許して」 家族全員発症 カネミ油症50年の証言

カネミ油症事件

カネミ油症事件ですが、カネミ倉庫とカネカに責任はあるのですか?

PCBは三井グループのカネカが製造していた。
PCB(ポリ塩化ビフェニル:鐘淵化学工業製造)
2004年(平成16年)「鐘淵化学工業株式会社」から「株式会社カネカ」に商号変更。

横浜マンション傾き問題、施工3社を提訴 三井不動産系

護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶


イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。


鉱毒説にいきつく

萩野は神岡鉱業所を見学して鉱毒説に確信を得たが、それを裏付ける証拠は何もなかった。研究の協力者はいなくなり、研究は行き詰まり失意の日々をすごしていた。イタイイタイ病と萩野の名前は有名になり、多くの研究者が萩野病院を訪ね研究の手助けを申し出たが、結局は話を聞くだけで、誰ひとりとして協力する者はいなかった。


※萩野さんは、戦争中どんなことをしたのだろうか??
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。


三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞

●日本軍が中国で行った細菌戦
・細菌戦パネル展(731部隊のやった細菌戦)




・細菌戦被害地(中国)の旅


●現代も受けるがれている731部隊の思想??
話は今につながっている!!

渡邊あきさんは満州の731部隊から無一文で引き揚げたのち、夫婦で食料品店を営みある程度繁盛したという。商売に忙殺され、子供たちを育て、戦後を必死で生きていく中で、部隊の事を思い出す間もなかったが、一方子どもたちにはそのことを隠し続けてきた。

石井四郎の戦後


ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影

堀田伸永

※当時の日本・アメリカ政府は、原爆の悲惨な惨状を国民に隠した!!


第1章 「美談」の眩惑
国家プロジェクトの光と影

原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会は、厚生省、文部省、運輸省、農林省だけでなく、1956年には原子力局も参加しておリ、原子力の平和利用を推進する科学者を中心にして、総括部会委貝26名、医学部会委員11名、専門委員9名、環境衛生部会委員17名、專門委員9名、食品衛生部会委員15名、專門委員15名、広島長崎部会委員13名、專門委員2名という学術界全体に影響を及ぼし得る布陣をしいた。連絡協議会の権威は厚生省も認めており、1956年5月6日、連絡協議会特別委員会の答申にもとづいて、厚生省が放射能許容度を「国際基準の10分の1とする」と発表したこともあった。



放影研 被爆者に謝罪へ ABCC時代、治療せず研究

731部隊の免責を得る為に、日本はアメリカに原爆調査(原爆の効力の調査)のデータをアメリカに渡した。
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?


宮川正・・・大正2年2月8日生、昭和12年東大医卒、昭和19年3月4日入隊、歩兵30連隊から731部隊レントゲン班(宮川班)に配属される。終戦時 軍医中尉。731部隊には、レントゲン班が「宮川班」「在田班」の2つあった。元隊員の話では、(どちらの班か不明だけれども)「レントゲン班で、マルタの肝臓にレントゲンを照射して、どこまでやると死に至るかという実験を自分たちでやったことがある」という証言がある。、

東大医学部放射線科・宮川正教授は退官記念講義で731部隊員だったことを曝露・追及された

世界は恐怖する死の灰の正体(亀井文夫監督)


水俣病原因究明を妨害し被害を拡大させた日本医師会会長・田宮猛雄は、731部隊や戦後の人体実験にも関与した
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている。

731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。


※日本政府は、アメリカと取引して中国で行った人体実験・細菌戦・毒ガス戦の資料を戦後国民に隠し続け、GHQは、原爆投下直後の原爆の影響を調べさせ、情報は隠蔽し、治療などはしなかった!!

●軍学共同の道

原爆投下直後の広島 京都府立医科大調査班の貴重写真
帝国の骨
1945年8月6日、広島に原爆が投下されると、京都府立医大は原爆調査班を結成、故荒木正哉教授らが10月から現地で治療や調査にあたった。調査班が撮影した被爆者や被爆地の様子貴重な写真を故荒木教授はアルバムにまとめ、核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会(反核京都医師の会)に託した。





驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く

・御活躍中の御用医学者と731部隊の関係を調べてみた。意外と簡単に結びつくので驚いた。
(以下敬称略)

==== 東大医科学研究所(旧伝染病研究所) ====
上昌広教授、坪倉正治医師の所属する医科学研究所(医科研)は、初代所長があの北里柴三郎で、由緒ある、エリート医学者のための研究所である。
しかし第7代所長・田宮猛雄は731部隊への人材供給役であった。
宮川米次(第5代伝研所長)、細谷省吾、小島三郎、柳沢謙、金子順一、安東洪次、緒方富雄、浅沼靖などの研究者が731部隊に関与したと言われる。戦後、何食わぬ顔で東大教授になった人もいる。
戦後、731部隊長・北野政次が伝研に現れたとき、もっとも北野を庇護したのがこの田宮であったと言われる。
戦後、田宮は731部隊で得た成果を利用し、リケッチアによる伝染病、つつが虫病の研究で有名になり、国立がんセンター初代所長、そして日本医師会会長まで登りつめ、医学界のボスとして君臨した。
水俣病では田宮委員会を組織し、熊本大医学部の有機水銀中毒説をつぶし、被害を拡大させた。田宮が初代所長になった国立がんセンターだが、ここも問題が多い。
上昌広は、2001年から国立がんセンターで造血器悪性腫瘍の臨床研究をしていた。
国策遂行が最優先され、臨床試験を効率よく行なうために、重篤患者を切り捨て他の病院に回すのが当たり前だったと語っている。患者の命よりも研究成果が重視されるのだ。
「国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊」 (MRIC Vol.198 2008/12/22)
http://mric.tanaka.md/2008/12/22/_vol_198.html
ちなみに、2011年9月に山下俊一は、日本対がん協会(垣添忠生会長)から「朝日がん大賞」を受賞したが、垣添は元国立がんセンター総長であった。まさにズブズブの関係だ。フィルムバッジを福島住民に配布することを提言したのもここ。
ここも汚職など不祥事が相次ぎ、2010年に独立行政法人へ移行、国立がん"研究"センターと改称している。
インタビューで、上教授は福島で収集したデータが高く売れると話している。
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/595.html
住民の命、健康を守ろうという姿勢は全くうかがえない。彼にとって福島は金ヅルでしかないようだ。
"モルモット"が逃げ出さないよう、後輩の坪倉正治を福島に派遣して安全デマを流布している。
「将来奴ら(福島県民)は、集団訴訟とかするんやろなあ」と酔って話したという話も伝わっている。
しかしまるで他人事、責任感は全く感じられない。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/aacebb2e3d5f936dce460130bdfd2f30

※戦後も優生保護法が1996年まで続いた。また、精神病院や乳児院・自衛隊などでは戦後も人体実験が続いていた。

優生保護法とはより
■優生保護法は、女性の生殖における権利も護っていなかった
日本の刑法には現在まで、1880(明治13)年につくられた堕胎罪があって、 人工妊娠中絶を禁止しています--ただし、罰せられるのは医師など中絶手術を行っ た者と女性で、男性は対象になりません。1945年に第二次大戦に敗れるまで、この堕胎罪が厳しく適用されたので、女性にとってはたいへん苦しい時代でした。優生保護法の成立で、女性はようやく、逮捕される心配なしに産まないことを選択できる ようになりました。でも、優生保護法のもとで中絶を行う決定には、医師の認定と配 偶者の同意が必要で、女性の意思でできるのではありませんでした。堕胎罪は存続していて、適用を強化することはいつでも可能です。優生保護法の成立は、生殖における女性の権利を回復したと言えるのでしょうか?
優生保護法とは

「731の問題」-戦中・戦後ー奈須重雄 2018.4.29



政府の被ばく基準に批判相次ぐ 衆院特別委で専門家 

久住静代氏 : 原子力安全委員会ー20mSvに関する見解


神谷研二
2012年6月11日、福島県内の被災者を中心とする「福島原発告訴団」の1324人は、業務上過失致死傷と公害犯罪処罰法違反の疑いで、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーである神谷、山下俊一、高村昇を含む33人を刑事告訴・告発した[9]。

被曝をめぐる御用学者の系譜



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