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国家犯罪!731から熊本大震災まで!!


●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良

8月24日(月)
8:10
ホテルを出発。車両は、バイク3台・四駆3 台で総勢25名ほど。ビドーの町を通りすぎ右折した道は、ダート。デコボコ道で慎重にゆっくりと前進していく。40分ほど進むと、もうこれ以上車両が入れない道幅となり、ここからは歩いて行くことになる。辺りはうっそうとしたジャングルで、お墓までまだ2 キロはあるという。遺族は70代と思われる男性の方。その方を家族の人たちが支え合いながら、皆がそれぞれのペースで進んで行く。道のりは険しく、その上ひざが少し悪いようで、足をズルようにして呼吸を乱しながら一歩一歩進んでいく姿が印象的であった。
9:45
やっとの思いで、孤墳墓碑(右欄上)へ到着。到着後、お墓周辺の掃除をしてから、バナナ・オレンジ・ビスケット・揚げパン・お酒などたくさんのお供え物と花束が供えられた。黄泉の国で不自由しないようにと紙銭が一枚一枚燃やされる。墓碑の周りには、たくさんのろうそくが立てられ、お線香が供えられた。









●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。




谷寿夫(たにひさお
1882.12.23(明治15)~ 1947.4.26(昭和22)
明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)
岡山県出身。東京府立四中を経て、陸軍士官学校(15期)卒業後、日露戦争に従軍。1912(M45)陸軍大学校(24期)卒業(恩賜軍刀組)。'15~'18(T4~T7)イギリス駐在武官となり、第1次世界大戦の西部戦線に従軍した。 '18帰国後、陸軍大学校の兵学教官に任命。'20~'23インド駐在武官。'24~'27再び陸軍大学校の兵学教官となり、日露戦争を研究する時の必読書として知られる兵学の教科書『機密日露戦史』を著した。 '30(S5)参謀本部付となり国連に派遣。同年、少将となり国連陸空軍代表となる。'32軍事調査委員長、'33近江歩兵第2旅団長、'34中将となり、東京湾要塞司令官を歴任。
'35第6師団長(熊本)となり、'37松井石根司令官率いる中支那方面軍の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍した。 このとき、南京事件(南京大虐殺)がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、同年12.28中部防衛司令官に任命された。 '39侍命、予備役編入。'45.8.12太平洋戦争終戦間近に、第59軍司令官兼中国軍管区司令官として復帰。 戦後、BC級戦犯とし南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を拘束、南京裁判にかけられ蒋介石により処刑された。日本では法務死とされる。享年66歳。戒名は大雄院殿廓然天真大居士。
<帝国陸軍のリーダー総覧><日本陸軍将官総覧>
【南京事件(南京大虐殺)】
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。 日本軍は中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。 中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日南京は陥落した。 12月14日中島今朝吾中将率いる師団の将兵が、市内の掃蕩にあたって、戦闘員・非戦闘員を問わず虐殺した。
日本軍はニュースに厳重な検閲を行ったが、「日本軍の乱行」として世界に宣伝された。 生き残った証人の言によれば、「2万人からの男女、子供たちが殺され」老若問わず殆んどすべての女性は野蛮な被害を受け、家という家は掠奪され、南京は4週間にわたって血の街と化してしまった。
帝国主義戦争の罪悪を暴露したとされるこの事件は、現在でも中国人の徹底的反帝抗日の意志となっている。 なお、南京事件(南京大虐殺)に関しては、現在でも論争となっており、事実と歪曲が入り交ざり解明が困難な状況である。

田原総一朗「記憶遺産登録の『南京大虐殺』を日本は完全否定できるのか」
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



なぜ、天皇、皇族は裁かれない???

【南京裁判】
南京事件(南京大虐殺)は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判(東京裁判)と南京軍事法廷で審判された。 極東国際軍事裁判では、事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根陸軍大将が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。 南京軍事法廷では、事件当時に第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。
裁判において谷は、申弁書の中で、掃討戦は中島部隊(第16師団)が起こしたものであり、第6師団は無関係であったと主張したが報われなかった。 谷の上司である第10軍司令官の柳川平助と、主力として南京掃討戦を行なった第16師団長の中島今朝吾は、'45に死去しており、松井石根につぐ責任者である上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王は皇族であり不起訴となったため、生き残っていた谷に責任がまわり罪をかぶせられたとされる。 なお、皇族が訴追されなかった理由は、アメリカ側の皇族は戦争犯罪に問わないという方針に基づいたものである。
南京裁判では、この他、百人斬り競争として報道された野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉陸軍大尉(三名とも当時の階級)が死刑となった。 現在、報道記事は戦時中の軍人や国民の戦意高揚の武勇伝とした記事で創作なのではないかや、日本刀で100人斬ることは不可能だとされ、否定派と肯定派の論争が続いており、2003両将校の遺族が死者に対する名誉毀損で裁判を起こした。
<日本史小辞典など>
朝日新聞
旧日本軍の「百人斬り」めぐる訴訟 本社などの勝訴確定
2006年12月22日23時16分
旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ故人を慕う遺族の気持ちを傷つけられた」などとして、朝日、毎日両新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は22日、遺族側の上告を棄却する決定をした。朝日新聞社などの勝訴が確定した。
二審・東京高裁は「百人斬り」を報じた当時の記事について「全くの虚偽であると認めることはできない」と認定し、請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持した。
南京虐殺否定派敗訴

【戦犯と多磨霊園に眠る人物】
法務死ではないが、A級戦犯として終身刑とされた人物で多磨霊園に眠る人物は、荒木貞夫、大島 浩、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一がいる。 '52処刑されなかった平沼騏一郎が獄中死ということで法務死扱いとなり、他13名とともに靖国神社に合祀された。 これら人物の合祀が元で靖国問題として騒がれることとなった。
裁判を免れたA級戦犯被指定者で多磨霊園に眠る人物は、岩村通世(不起訴)、徳富蘇峰(不起訴)、本庄 繁(自殺)、中島知久平(不起訴)がいる。戦犯とされたであろうが自決しリストに入らなかった多磨霊園に眠る人物も多い。 阿南惟幾 (S20.8.15)、宇垣 纏(S20.8.15)、親泊朝省(S20.9.4)、島田朋三郎(S20.9.4)、杉山 元(S20.9.12)。
BC級戦犯は戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪とし、戦勝国の連合国の世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれた。 5645人が容疑をかけられ、死刑判決912人、病死127人、事故死25人、自決41人、不明死60人の合計1165名の死者にのぼる(峯氏HP「殉国の碑」を参考)。 またソ連では秘密裁判により3000名、中国の人民裁判では約3500人が処刑されたといわれているが、未だにその詳細は明かにされていない。 そのため、裁きを受け多磨霊園に眠る下級軍人も多いはずであるが詳細はわからない。 現在、法務死としてわかっているのは、山下奉文(S21.2.23マニラ大虐殺等の責任を問われマニラで絞首刑)、谷寿夫(南京大虐殺の責任を問われ南京で処刑)、橋本虎之助(中国の戦犯として抑留中S27ハルピンで没す)である。 なお、吉岡安直はモスクワ市内の病院で病死とされているが、他殺説とも言われている。




●情報公開(戦争への道を阻止するために!!
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!


毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず

・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?

・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!

情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??


「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。



●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造

5「秘」の性格と内容
モザイク理論の登場


また、空自達に 「総合編集」の結果が秘密になるという、いわゆるモザイク理論が姿を見せているのも問題である。西ドイツでは「それ自体は公表されている事実であっても、それを体系的に編集し充分に総合することによって得られた国家の重要な軍事能力の正確な叙述は国家機密たりうる」という連邦裁判所の判決があったが、1962年、NATOの演習「ファレックス62」の内容を暴露した雑誌『シュピーゲル』事件に関する連邦憲法裁判所判決(66・8・5)では、「すでに知られているか、あるいは一般に知りうる状態にある個々の事実を体系的に総合して、国防の重要な要素の正確な全体像を構成したばあいにも国家機密の漏洩があるとする理論は認められない」との意見が半数の裁判官から出され、憲法訴願自体は却下されたがモザイク理論は出版の自由に反するとして認められなかった。(石村善治「報道の自由と国家機密」、『法律時報』71年9月号および野中俊彦「西ドイツ―連邦憲法裁判所判例を中心として」、『ジュリスト』72・6・15)。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景


※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。

日本の原爆開発


核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?


”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!


科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』






●南京大虐殺

ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。


12月18日 土曜日
皆さん方にもしも時間がおありでしたら、私と一緒に何ヶ所か、恐怖と苦痛とのなお続いている地区へ出かけられると一番よい、と私は確信するのですが、そこと皆さん方の住まっておられる所とは、すぐ近くなのです。兵士たち7人のお定まりの公務、自称「検査」なる、実際には夜になったら引っ張っていける女の人を探し当てるのに、対処させられて、この手紙を書くのが妨げられてしまいました。
夕べ私はここで眠りましたし、それがこれからも続くのでしょうが、何の助けも無い婦女や児童たちに、少しでも支援してあげられればと思っています。こういう人道的な働きに携わっている、他の外国人も私自身も、皆さん方の兵士に脅かされていますが、もしも私たちが、挙止の尋常でない日本兵に傷つけられたり殺戮されたりしたならば、誰の責任になるのか明らかです。
この手紙は純粋に善意から書かれたもので、礼儀をわきまえたものですが、ここで明らかにしました実際に起こっている、不愉快で失望させられる幾つもの事実は、日本軍が入城してから5日の間に、私たちが自分自身で経験したものです。急いで、解決と救いとの道を開いて下さいますように。
貴殿の信頼に値する
金陵大学応変委員会議長


しゃべってから死ぬ!南京大虐殺


南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分


昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!

ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。
そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より





※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん



2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。

<戦争は犯罪>
途方もない人生も、問い詰めてゆくと、そこに戦争の災いが見えてくる。人間を狂わせる戦争は、いかなる口実をつけても正当化できない。
「日米同盟がないと、だれが守ってくれるの?」「そのために自衛隊を差し出しても仕方ない」という意見を、ある信仰者から聞いたばかりだ。与党議員の受け売りを信じている婦人だ。戦前回帰を警戒しなければならない。

今も、人間の脳を改造する作業が、執拗に繰り広げられている。そのような人たちへの警鐘本が「この生あるは」ではないだろうか。
人々の平和の心を変身させる作業が驀進中だ。中島さんは、それに抗して戦後70年の2015年にこの記録をまとめて発表した。戦争は犯罪である。



発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」






●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!


夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第3部
追われるもの


延々とつながれた長い貨車は、傷ついて逃げ行く蛇のように走った。私が乗った車輌は、同輩と雇員が大部分で、武器を所持してきた者は半数ぐらいだった。拳銃や軍刀はどこかに、まとめて積み込んであるはずだった。高級幹部たちは、最後の車輌である。
逃げながらも、私達は、日本が負けるなどとは考えていなかった。だが、行く先がはっきりしないらしく、車輌の責任者である尾藤属すら確かな回答はできない始末だ。
初め、通化へ行くのだろうという話だったが、平房に出たとき、南へは向わずハルピンに向って北上することになったので、ますますわからなくなった。
同じ車輌に乗った浜中、森島が、ぐったりして眠るのを見ているうち、私もまた眠りに誘い込まれ、眼が覚めたとき、列車は真っ暗な野原の中に、停まっていた。
森島は起きていた。浜中は、まだ眠ったままである。
「ここはどこ?」
「もうじき、ハルビンだろうなぁ」
「何か情報は入らなかったかい?」
「さあ、何にも分からないそうだ。まさか、盲滅法に走っているわけではないだろうが」
「どこへ行くのでしょうか?」
私は、膝を乗り出して野口傭員に尋ねてみた。
「通化らしいな」
という返事だが、あまり自信はなさそうである。
「じゃ、どうして、まっすぐ拉浜(ラヒン)線を南下しないのでしょうか?」
「どうしてだか、多分、拉浜線は治安状態が良くないからだろうなぁ。五常附近の山奥は共産匪の勢力が強くて、満洲事変のときにも完全に討伐することができなかったのだからね。だから、通化へは、新京から吉林を経て入るかも知れんし、本渓湖から入るかも知れん、どっちとも分からんがな」


厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)
医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)


※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。


真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
毒ガス実験証言


ガン治療のウラ 6/8



「医療」概論 船瀬俊介の船瀬塾<ふなせのもと>




「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄1/6 ラジオ深夜便





●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏

明らかに、昭和天皇は、原爆投下を引き合いに出すことで、みずからの降伏決定を正当化しようとしていた。8月14日の詔書を伝えた玉音放送は、日本で最初に原爆の効果を正式かつ公式に承認するものとなった。天皇とその側近が実際にそのように考えていたかどうかは不明だが、3日後の8月17日、天皇はアジア、太平洋全域の戦場で戦闘を停止し武装解除を命じるために「陸海軍人に賜わりたる勅語」を渙発した。このときは、軍隊だけを対象にしたので、ソ連参戦と降伏決定の因果関係を強調し、原爆についての言及は避けている点が注意を引く。


瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」




●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

裕仁の外出

東京における連合軍最高司令部の最初の日、東久邇首相は、アメリカ人記者との最初の会見を行った。そのうちの一人は後で、「世界のいかなる国のいかなる相当の地位にある者も、かつて、報道陣からのそれほど無遠慮な質問にさらされたことがある」とは考え難いと述べた。洒落た薄茶の絹のスーツを着て、東久邇は、そうした露骨な質問を、冷静沈着にこなした。もちろん、彼は民主的手続きを拡大する積もりであった。陸軍、海軍の両省はまもなく解体され、貴族院の影響は大きく削減される予定だった。むろん、彼は、すべての計画をマッカーサーの許可を得るために提出する積もりであったが、内閣があまたの手持ちの改革案件を維持できるよう望んでいた。たとえば、戦争犯罪人の訴追については、アメリカ軍の登場のはるか以前から始まり、容疑者は連合軍捕虜への虐待によってすでに処罰されていた。いかんせん、その〔記者会見の〕時点でとっさには、そうした犯罪人の名前も罪状も発表できず、連合軍最高司令部がそのリストを提供可能にすることとなった。





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15年戦争時、中国・日本で起こったことを書きたい。

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