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その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
 1938年の夏、ヴォートリンは、金陵女学院に安全区撤廃後も保護収容した800人余りの若い婦女子の難民にたいする夏期学校を開いた。南京事件で夫を殺された若い寡婦、父親を殺害され、あるいは一家離散して身寄りのなくなった娘や少女たちが、これから自分たちで生きていくためには、文字が読め、計算ができ、手に職を持つ必要があった。そのために、識字教育から始まって、職業技術教育、結婚生活に備えての家政教育、衛生看護教育等も受けさせる必要があった。これらはすべてヴォートリンのこれまでのセツルメント的な隣保学校の教育で実践されてきたものであった。
 1938年の9月には、金陵女学院に正式な家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、広く南京市内の貧困家庭の婦女子へも開放した。前者では、女性に、裁縫、料理、菜園づくり、家畜飼育、などを教えるだけでなく、紡績、紡織、衣服の仕立てなどの職業技術の訓練指導も行った。後者では、貧困家庭の女子を入学させて、基礎的な中学校教科を教えるとともに、生活教育、労働教育、奉仕活動教育、宗教教育にも力を入れた。
 ヴォートリンはこのような教育を天職と考えていたので、ある意味で教育者としての彼女の夢が実現したともいえるが、そのために彼女が直面した現実の障害と困難はもっと大きかった。金陵女学院に難民として収容した婦女子の生活費は南京国際救済委員会から支給されたが、教育費は最初からの約束により一切援助されなかった。家庭工芸クラスの生徒100名、中学実験クラスの生徒170余名からは、授業料、学費の徴収はほとんどできなかったので、学校経費の調達にヴォートリンは頭を悩ました。南京にとどまった金陵女学院の約10名の教職員と、家庭工芸クラスと中学実験クラスの授業を担当してくれる教師たちも、奉仕的活動には限度があり、彼らの生活を維持するに足りる給料を支払ってやる必要があった。こうした教育経費確保のための責任もヴォートリンの肩にかかっていたのである。
 一方、南京に中華民国維新政府を樹立させ、南京市政府公署を組織させて、占領地行政を開始した日本当局からの政治圧力も、ヴォートリンを悩ませた。南京に駐在する日本の軍政当局の関係者がくりかえし金陵女学院を視察に訪れ、傀儡政府の学校制度に従うことや同政府の発行する教科書を使用することなどを要求したのである。
 教育者としての夢を実現するにあたって、ヴォートリンが突き当たった困難と障害は、彼女を疲労させた。何よりも彼女の心が傷ついたのは、日本軍が次々と中国の大都市を爆撃、破壊し、戦火を拡大していくニュースに接した時だった。ヴォートリンが中国で実現しようとした夢を、日本軍が1つ1つ破壊していくように思えたのである。日本軍侵攻のニュースは、南京事件の日々に目撃し体験した惨状を想起させ、ヴォートリンが受けたトラウマを少しずつ悪化させていくことになった。
 1938年12月中旬になると、1年前の南京事件の日々の記憶がヴォートリンに恐怖と悲しみの思いを新たにさせ、いっそう彼女を沈うつにさせた。日記にこう書いている。
「ちょうど1年前の砲火と砲撃を思い出して悲痛な思いに駆られる」(12月10日)、「今晩、私たちの心は悲しみに沈んでいる。ちょうど1年前の、銃と銃剣にさらされた恐怖が今日あらためて蘇ってくる」(12月12日)、「昨年のまさにこの日、何千人、さらに何千人と殺された人たちのために、とくに追悼式をしてやるべきではなかったろうか」(12月13日)、「ちょうど1年前の今晩、金曜日、この時間に私たちは非常な恐怖に駆られながら正門に立っていた。その時は私たちは知らなかったが、私たちの難民収容所の12人の若い女性がキャンパスから拉致されていったのだ。あの夜は一生忘れることができない」(12月16日)、「昨年、私たちが最も恐ろしい体験をした日の一周年である」(12月17日)。
 ヴォートリンは1日1日、そして一刻ごとに1年前の残虐と恐怖の体験をありありと想起しては、トラウマを深めていたのである。
     
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

高秀琴(女、64歳)の証言
 1937年には、私は17歳で、父について漢中門外で芦のむしろを編んだり、芦のたきぎを売ったりして、暮らしていました。日本兵が入ってくる前から、難民区へ行っている人もいました。私の家はお金が無かったので、外にもたくさんいた貧乏人と同じように、まだ家に留まっていました。
 日本軍が南京を占領してからは、しょっちゅう食べるものを捜しに城外の私たちの住んでいるところにやってきて、豚や鶏を見つけてはつかまえて行きました。私たちは自分で掘った地下の洞窟に身を潜め、地上で鶏が跳んだり犬が鳴いたりしているのや雑然とした革靴の物音がはっきり聞こえていました。
 ある日、私が城内へ行ったら、日本兵が手にたこのできている人たちを捕まえてトラック8,9台に載せ、漢中門の埠頭まで引っ張っていき機銃掃射で死なせました。午前9時か10時頃から午後の2時くらいまで、漢中門埠頭から聞こえてくる銃声がずっと鳴り続けていました。銃声が止んでから、私たち仲間でその所まで走って行き、死体で埠頭が埋まっているのをこの眼で見たのですが、何とも見るに耐えない惨状でした。だいぶたってから、やっと紅卍字会の淘煉廠の近くに大きな穴を2つ掘って、屍を埋めました。
 ある日の午前中に、私は5,60歳のお婆さん3人と、漢中門へ行って家へ帰って食べる味噌を担いでこようとしました。帰ってくるときに、城門まで来たら、歩哨に立っていた日本兵に差し止められて、私たちの担いでいる味噌を食べさせろと言われました。その味噌が良くないものと分かったら、もうほしがりませんでした。私はその時、頭にボロの頭巾をかぶり、顔は汚く塗りたくって、うんと見がたいかっこうをしていました。私たちが行こうとしたら、日本軍が突然私の頭巾を引っぱがして、こいつは若い娘だと言うので、そうじゃないと私は言いました。二の句を継がせずに、彼らは私を引きずって兵舎の方へ走って行きました。その道でちょうど馬に乗った将校2人と出くわし、兵隊は立ち止まって敬礼し、将校が問いかけるのに答えました。その隙に私は逃げ出しました。遠くまで逃げないうちに、兵隊が私に3発撃ったのですが、その一発が私の左腕に当たりました。家に帰ったら、手が血だらけで、紅く腫れてきました。だいぶたってよくなりましたが、今でも幅2ミリくらい、長さ5ミリほどの傷痕があります。(陸家○が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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15年戦争時、中国・日本で起こったことを書きたい。

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