
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
731部隊被害者遺族の訴え!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが
何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?
実験医学雑誌第18巻雑報
18巻2号(1934年)
所長就任のご挨拶と職員に対する希望
宮川米次
4. 我等の伝研
我々所員一同は伝研に対し常に我らの伝研と言う信条を持って頂きたい。 之_れは私しするという意味ではありません。心からなる愛の表徴として我等の伝研という観念を持てということであります。 此の信念は総てに現はれます。 伝研其物の毀誉褒貶は即自己の毀誉褒貶と思うて頂きたい。此の信念さへ強固でありますれば、伝研の前途は洋々たるものであります。
伝研に対する愛の発露がありますれば、 伝研の一物一事を使用しますのにも、其所に深い注意が払われます。 「ガーゼ」の一片を使うのにも、 酒精の一滴を使うのにも満身の注意が注がれます。決して物を粗末に致さなくなります。之れに反して、伝研の物は御上のものである、何れも官給品であるという様な妙な気分で居りますと、其所に少しも親しみがありません。思はず物事が粗末になり勝ちになりはせぬかと思うのであります。
此様に我等が伝研なる信条は、実に精神的にも物質的にも極めて大切なる事柄であると思うのであります。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
第5 当裁判所の判断
6 被告の立法不作為による損害賠償請求について(争点6)
(3)そこで、上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無について見ておくこととする。
(イ)1940(昭和15)年から1942(昭和17)年にかけて731部隊や1644部隊等によって、次の a.f.g.h の通り中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。
c 東陽
(a)1941(昭和16)年10月、義烏で流行していたペストが東陽県に伝播し、同所で流行した。
(b)原告郭飛龍によれば、同原告の住む歌山鎮では40名以上がペストで死亡したとされる。
(甲77、98の1・2、353の1・2、証人邱明軒)
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
731部隊の行なった細菌戦
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。
日本の中国東北侵略から90年

「1931」斉藤準太郎の日記
3月11日
晴 風なし 零上二度 休暇 祝賀会
夜と言っても夕暮れ 営庭に集まって軍歌演習あり。なんでも歌う時だけは子供だ。之が二つの輪を作って外まわり内まわり音を取りつつバン声張り上げる その声は遠くもないが八卦溝部落に流れてゆく
御年二三歳の青年とは思へない無邪気な若さだ。夜は夜で娯楽会あり 週番下士気合をかけれど兵隊中々踊らず?無心に流るる星や終夜光る電燈に暗く描き出されし中学校や満鉄病院や官舎がしっとり濡れた。夕闇に写っている又してもむなしく一日は流れた。丁度星の様に。
軍都広島での物語
●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)
挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より
エピローグ 広島から・・・・・
この、予感は当たっていた。広島は、5年後の今、僕にとって最も重く、最も大きな存在となった。僕は度々、実に息苦しく、辛い夢を見る。陽ざかりの真夏の広場に、阿波人形みたいな頭をしっかりもたげ、緊張した小柄な中年男が寝間着を着込んで立ち、蚊のなくような声で演説する。夢の中の俺は彼の声を聞きながら、彼が数か月後、原爆症による不意の衰弱死をすることを知っているのである。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
細菌詩集
731部隊を詠む
とべ しゅん(仮名=ペンネーム)
1644部隊
〈経歴〉
1919年生まれ
1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属
1944年 帰国。召集解除
■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。
伝染病菌の検索と研究
次の詩は、戦後、私がつくったものです。
ヘロイン
肌の粗い壁面
裸電球の暗い光の中で
萎びた青白い腕が
大きく震えている
殺されたものは 確かに
極限状態に閉塞された
にんげんだったか
殺したものは
魂を喪くした悪魔
おれたちが鬼子(くいず)
日本鬼子(りいべん・くいず)
(『詩人会議』1983年8月号より)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
吉沢行雄の罪悪事実についての調査分析(1954年12月28日)
私は山西省惇(忄が山辺)県原平鎮山西惇(忄が山辺)県住民張存福の告発資料に基づいて検討した結果、1954年12月28日、山西惇(忄が山辺)県原平鎮に赴き、告発人張存福及び当時日本人に仕えた苦力高福生、李五龍らに対して綿密な審問を行った。その結果、1940年9月下旬、原平鎮に駐屯したいた旧日本陸軍病院の軍医少尉吉沢行雄は、捕虜となった抗日戦士2名を解剖していたことが明らかになった。その情況を以下に述べる。
1、捕虜を解剖する当日の朝食後、当時原平の旧日本軍西村部隊陸軍病院の水汲み苦力をしていた張存福は、5人の日本人が2人の灰色の軍服を着た捕虜の戦士を縛って外科治療室に連れて行くのを見たが、遂に彼らは出てこなかった。
●毒ガス戦
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
2 毒ガス戦に対する参謀本部の意識
「大陸指」からどのような背景が読み取れるか
①くしゃみ性・嘔吐性ガスの使用を初めて許可した「大陸指110号」(38年4月11日)、
②びらん性ガスの実験的使用を初めて許可した「大陸指第452号」(39年5月13日)、
③びらん性ガスも含めた毒ガス兵器の使用を許可した「大陸指第699号」(40年7月23日)
には共通の点がある。
それは、使用の秘匿と、②と③では「第3国人」に知られないよう注意せよとしていること(尚、②では「第3国人」の被害を「絶無」にせよとしている)、そして①と②では使用対象地域に山西省の奥地を指定しており、使用の事実を秘匿しやすい場所を意識的に選定しているということである。

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章 残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
付:百団大戦中に捕獲した敵の毒ガス兵器、及びわが軍の中毒者数
第1段階 第2段階 第3段階
毒ガス兵器 ガス弾 47発 (原文空白) 10発
毒ガス 93箱 28筒 10筒
幹部 50名 100名 30名
兵士 1200名 3000名 500名
(「第1129師団、百団大戦3段階遂行の戦績統計表」より。『百団大戦史料』236ページ参照)



日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
懐柔
捕虜を密偵に仕立てようと画策
大井憲太郎
特捜班長 警佐兼地方保安局属官
〈略歴〉
本籍地 長崎県西彼杵郡
出身階級 雑貨小売商
学歴 私立長崎貿易商業学校4年中途退学
職業 市役所事務員
所属部隊名 旧満州興安総省警務庁特務科
被捕年月日場所 1945年11月25日
長春市祝町朝日ビル3階
年齢46歳
「これはどこかね」と尋ねた。
絵に見入ったまましんみりとした口調で「山東の故郷だ」
「そうか、なかなかうまいなあ」と言って私は、そばにいた李にその絵を壁に貼らせた。曲はまばたきもせず、絵から眼を離さなかった。私は開き直って大声をあげた。
「お前は去年の暮、錦州から来た勤労奉公隊の者をそそのかして、副中隊長以下そっくり逃しただろう」
曲は呆気にとられたような顔をして
「そんなことなら俺は昨日聞いた」と言った。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)



●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス

在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー
5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
・12 月 20 日(月)午後 2 時
・1 月 14 日(金)午後?時
・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷
◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する
情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第3章 秘密保全の機構と体制
3 産軍複合の秘密
政治資金の黒い霧
60年安保当時の防衛庁長官であった赤城宗徳は、語っている。「問題は防衛庁の実権をにぎる政界の首脳と業者の関係だ。・・・ボクの時代には、業者との関係はなかったもんだ。・・・それが、ある時代からだらしなくなって、困ったんもんだねぇ」(『週刊朝日』68・3・22)。同じころの『毎日新聞』(68・3・7)も、65年あたりから「防衛庁長官のポストが建設や通産大臣などと同じく金ヅル確保のためのイスに変わった」ときめつける長官OBが存在する事実を伝えている。「ボクの時代」のことはともかく、60年代後半の時期に、佐藤内閣は産軍を結ぶパイプから巨額の政治資金を吸い上げる体制をきずいたのである。防衛庁長官は増田のあと、有田喜一(福田派)、中曽根康弘(中曽根派)、増原恵吉(福田系)、西村直巳(佐藤派)、江崎真澄(藤山派)とまわった。分け前の配分である。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊

●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
アメリカにおける生物・化学兵器の開発
米軍のBCW研究基地で最も大きいものは、メリーランド州フォート・デトリックの陸軍生物兵器基地である。ここでは年間70万匹を越すハツカネズミ、モルモット、サル、ウサギなどを使って炭疽熱、各種ペスト、中毒素などのバクテリア、ウイルスを戦略的攻撃兵器として研究・開発中だ。またアーカンソー州のパイン・ブラフの陸軍化学兵器基地では各種の化学ガスの研究・製造を行っており、ベトナム戦争作戦用のCSやCNはここで製造されていると言われている。(68、3.30・『朝日新聞』)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!

第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
Ⅳ
岸失脚に学んだ彼の後継首相池田勇人は、憲法改正を断念し、「寛容と忍耐」をスローガンにかかげた。彼は主に、国民総生産を年9パーセント増加させ、10年以内に国民の所得を「倍増」させる計画によって記憶されている。彼が政権の座にあった1960年7月から64年11月までの時期に、日本は1973年の第1次「オイル・ショック」まで続く例のない経済成長に突入した。その年に成長は鈍ったものの、依然として日本の成長率はどの西側諸国より高かった。農業人口の減少が加速され、1960年に就業人口の3分の1だったのが、70年に5分の1、80年には10分の1以下に下がった。天皇が67歳になった1968年、日本の国民総生産は資本主義国中、第2位に達した。それでも、「1981年に彼が80歳を迎えるころにも、かつて天皇制の重要な支持基盤だった農村はまだ存在していた。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
● 核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
核実験の探知
東西冷戦中には、アメリカ合衆国が地下核実験の探知を目的として世界中に地震計を設置した。おもにソビエト連邦が実施した地下核実験によって生じる地震波をとらえた。いっぽう、核実験実施国も自然地震と見せかけるために巧妙な核実験を行った。たとえば爆弾を並べて短時間に順に爆発させていき断層破壊と偽ったり、2発の爆弾を短時間に続けて爆発させ自然地震特有のpP波に似た波を発生させたりしていた。
このような経緯で設置された地震計は、現在では純粋に地震学の分野で大きく活用されている(たとえば地震波トモグラフィー)。
なお、地震計による核実験探知については、ブルース・A・ボルト著『地下核実験探知』に詳しく記してある。
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した