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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆輝ける研究実績は人体実験から
 平房で孫呉熱の研究をした笠原四郎は、明らかに平房での人体実験に基づいた医学論文を発表している。彼は名誉副院長を務める東京の北里研究所で、彼の医学論文について話し合うために、私たちに会うことに同意した。
この人は、常に消えることのない微笑をたたえ、しきりに手を動かしながら、現在生きている白衣の世界では遠く忘れ去られていた、恐怖に満ちた過去へと、徐々に引き戻されていった。
 「・・・・実験用にマルタが欲しい時は総務課に書類を出して・・・血液が次の患者にウィルスを運んだかどうかを調べました・・・私たちは他の死体からとった血液、肝臓、腎臓などを使って中国人のスパイに実験しました」

 秘書や助手たちがこの大先生の実験室をうやうやしく出たり入ったりしていた。最後に交わしたのは次のような会話だった。

 Q 1人の捕虜でも実験に使うことは、ましてや殺すということは医の倫理に反するのはもちろんですが、ジュネーブ協定に違反していますよね。
 笠原 はい、違反していると思います。彼らは兵隊でした。捕虜でした。日本の軍隊は間違っていたと思います。
 Q しかし、731部隊でのあなたの役目はどうなんですか。良心の呵責は何も感じないのですか。
 笠原 非常に心苦しいです・・・悪いことをしたと思います。
 Q あなたや石井はなぜ起訴を逃れたのですか。
 笠原 よく知りませんが、石井中将と占領軍との間で取引があったということを聞きました。
※インタビューの当時は、日本も豊かになり、柔和な顔になっていたのだろう。しかし、戦時中、日本は必死に戦争を遂行し、国家総動員法を施行して、医学者にも戦争協力を求めた。笠原も北里研究所にいる時に召集された。そして、731部隊で人体事件をした。
 軍部・政府・天皇が進めた戦争。731部隊の罪業は、そこで人体実験や生体解剖をした医学者などにもちろんあるが、それを強制した天皇をはじめとする上層部にはもっと責任があると思う!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
韓淑華(女、60歳)の証言
 日本の侵略軍が入って来た時、私は下浮橋に住んでいて、ほんの12歳でした。ある日の午前中私は洋橋口で、20歳前後の男子が1人、日本兵に一発撃たれ、弾が胸を貫通したのをこの眼で見ましたが、夕方になり、傷が重すぎて死亡しました。その他に生姜巷で、50歳余りのお婆さんが1人日本軍に強姦されるのを目撃したのです。中国侵略日本軍の南京での重ね重ねの暴虐は、私たちも永遠に忘れられません。(馬中炎と馬管良が記録)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆輝ける研究実績は人体実験から
 今日、まだ存命中の科学者たちは731部隊や100部隊との関連についてあまり語りたがらない。池田苗夫は大阪の郊外で血液専門の医院を開いている。池田は1968(昭和43)年、満州で行われた流行性出血熱の人体実験の結果を日本の医学雑誌に発表しても大丈夫だと考えた。読者諸氏は驚くべきことと思うかもしれないが、池田は次のように書いている。「筆者は患者から採集したノミとシラミの伝染性と、流行性出血熱に感染した患者の血を吸うことで人為的に汚染したシラミが伝染力を持つことを実験した。かくして、健康人が毒化シラミによって発病することが確認された」。
 私たちが見つけた証拠の記録は彼の名前で書かれていて、その中で彼は捕虜のかかとに破傷風菌を注射する実験を指導している。これについて尋ねたところ、池田は回答を避けた。私たちはなぜ彼がそのようなことをしたのか知る必要があると迫ったが、彼は「もう年をとりすぎた・・・昔のことだ」などと口の中でつぶやいた。そして、彼の質素なつくりの医院の廊下を、足をひきづるようにして奥へと消えてしまった。

 ある人は匿名で語ってくれた。日本のあるホテルの一室で私たちは元細菌戦部隊の隊員だった、ずんぐりとした薬学者と会って、その殺りくの実態や、恐ろしいウィルスや細菌爆弾の製造について話し合った。それから彼はホテルを出て午後の暖かい日差しの中へ、社会の中枢へと戻って行った。彼の上着の襟にはロータリー・クラブのバッジが陽の光を受けて輝いていた。

※戦後日本で活躍した731部隊の科学者のほとんどは、731部隊で得たデータを元に論文を書いたり、新製品の開発を進めた。そして、ある者は出世し、いろいろな賞を受賞した。
 本人たちには、良心の呵責などなかったのか?みんなで、絶対に口外しないと誓ったことを、多くの上級幹部たちはかたくなに守った。そんなことをしたら、天皇の戦争責任につながると思っていたのだろう!!


しかし、医学論文には、発表していた!!
池田苗夫について調べていたらこんな記事があったので転載します!

薬害エイズと日本の医学者
七三一部隊の陰を引きずったミドリ十字


 ミドリ十字が設立されたのは1950年11月で、朝鮮戦争が勃発した5ヶ月後です。当時は「日本ブラッド・バンク」という名称で、設立者は内藤良一という人物です。
 内藤は、侵略戦争当時、陸軍軍医学校「防疫研究室」の主任でした。この「防疫研究室」の主幹は、かの有名な七三一部隊の石井四郎でした。石井は満州で細菌戦の人体実験を行いながら、一方で侵略戦争全域での細菌戦展開の作戦についてはこの内藤に命じていたのです。ですから内藤はいわば七三一部隊の総参謀役ともいえる人物でした。
 アウシュビッツにも匹敵する戦争犯罪だった七三一部隊の罪状がアメリカ進駐軍によって意識的に免罪され、データがアメリカに売り渡され、それと引き換えに七三一部隊関係者はその庇護のもとに戦後の社会で活動したことは周知の事実です。そして、朝鮮戦争でアメリカ軍人の輸血の必要が生じたことを契機に、内藤は売血制度を中心にして「日本ブラッド・バンク」を設立したのです。設立当時は石井の後の七三一部隊の部隊長だった北野政次が東京の工場長をしています。また石井の京都大学在籍時の指導教官だった木村廉が会社の顧問的役割を果たしていたようです。
 このように、ミドリ十字は元から七三一部隊の陰を引きずって生まれ、七三一部隊の犯した戦争犯罪を何ら反省しない人々によってその事業が始められました。それ以後、戦後日本の医学界に入り込んだ七三一部隊の研究者とその弟子たちを取り込んで発展してきた会社です。「非加熱製剤」が中止された後にも、それを回収するどころか販売し続けるという人命軽視、人間無視の姿勢は、まさに七三一部隊の思想を今に受け継いでいるといえるでしょう。
 このことは、このような恥部をいまだにかかえている日本の医学界の重要な課題でもあります。いって見れば、薬害エイズは、日本の医学界が七三一部隊について未だに何ら反省してこなかったことと深く結びついている問題だと思います。




日本の医学界と七三一部隊


日本の医学界は七三一部隊について何ら反省してきませんでした。当時満州の七三一部隊で「研究」の主要な役割をしていた多くの技術者が、その後各地の医学部の教授となり、その後もそれぞれの学会でボス的行動をとってきたことを医学界は黙認してきました。例えば、石川大刀雄は金沢大教授、岡本耕造、田部井和、吉村寿人は兵庫医大教授、林一郎、斉藤幸一郎は長崎医大教授に就任しています。また南京につくられた「栄」一六四四部隊の技術者たちは、東大伝研(後の国立予防衛生研究所)に住み着いたごとくです。
 五二年一〇月、日本学術会議第一三回総会が開かれました。この総会に平野義太郎、福島要一らが、「細菌兵器禁止に関するジュネーブ条約の批准を国会に申し入れる件」を議案として掲出しました。当然の提案でした。ところが、これに反対したのは医学関係の第七部に属する戸田正三、木村廉でした。戸田、木村は京都大学医学部の教授で石井を指導した教官であり、侵略戦争当時は七三一部隊の技術者を送り込んだ張本人だったことはよく知られています。その反対理由として「現在日本では戦争を放棄しているのであるから、戦時に問題になる条約を批准するのは筋違い。」「四〇年前に解決している問題であって、実用にならないものに苦労するはずがない。」などと述べています。七三一部隊の犯罪を反省するどころか、それがアメリカ軍によって免罪されたことを正当化した発言でもあります。
 また、六七年一二月と六八年八月の日本伝染病学会雑誌(四一巻九号、四二巻五号)に、「流行性出血熱の流行学的調査研究」という原著を池田苗夫(かつて軍医中佐)が発表しています。これは四二年頃の満州・黒河、孫呉地方での流行性出血熱の七三一部隊での調査の記録です。七三一部隊がようやく日本の社会で問題視されたさなかに、日本伝染病学会でこのような論文が公然と発表され、しかも学会誌がそれを掲載しているのです。いかに医学界が七三一部隊の犯罪に無関心か、否、それを正当化さえしていることに憤りを感じざるを得ません。
 今日まで、日本政府は一五年戦争が日本の侵略戦争であったことを正しく反省していません。同様に、日本の医学界も七三一部隊の犯罪性、非倫理性についての反省がなかったことを証明しているようです。
 薬害エイズの原因となった血液製剤は製薬五社(ミドリ十字、日本臓器製薬、バイエル薬品、バクスター、化学血清療法研究所)によって供給されたものです。この中で最初に非加熱製剤の輸入を申請したのはミドリ十字です。おそらく製薬五社の中で主導的役割を果たしてきたのでしょう。このことから薬害エイズを発生させた遠因は、今から六十年も前の七三一部隊の人間無視の思想にあるような気がします。
(民医連医療No285(1996年4月)52-53 より転載)
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
車秀英(女、67歳)の証言
 日本軍が1937年に入って来た時、私はやっと20歳でした。私たちは家中で沙洲圩の叔父の家まで逃げ、それから船で南京へ戻ろうと準備していました。長江の岸辺で私は日本兵が1人お婆さんを1人銃剣でほじくり殺すのを見かけましたが、それから日本兵は若い娘さんを1人無理矢理連れて行き、土地廟まで引きずって行って強姦しました。双○の大路で、日本軍が死んだ人の頭をたくさん一列にし、顔を長江に向けて並べていました。○虹橋の下に、殺された中国のラオパーイシン(=庶民)の屍が、うずたかく小山になっていて、醤園店の味噌のかめの中は、屍ばっかりで、今の淘煉廠の付近には「万人坑」が2つあります。(陸家○と段立平が記録)※○は日本の漢字に変換できない字。
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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    「怨」
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「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆血液銀行からミドリ十字へ
 ニューヨーク科学アカデミーのメンバーでもある内藤は、1963(昭和38)年に人工血液に関する彼の先駆的研究に対して日本学士院賞を受賞した。平房では人間の血液の代用となるものを捜す初期の試みとして、人間モルモットたちに馬の血液をおもいっきり注入したりした。ミドリ十字は人工血液で大儲けした。ところが1982(昭和57)年になってから、1970(昭和45)年1月のこの製品のテストには、72歳の女性のがん患者を使ったという新聞記事が出て、ミドリ十字社に大混乱が起きた。しかし、人工血液を製造・販売する許可を受けるために厚生省に提出した申請書には、最初に実験台になったのは内藤を始めとする他のミドリ十字の重役たちで、実験が行われたのは3月だと書いてあった。最初の人体実験は健康な自発的協力者を使って行われるべきだとする広く尊重されている規則に反して、病気の人を使って新薬の実験をしたということで、ミドリ十字は非難された。しかし新聞の報道の内容が確認された後、厚生省は提出済みのデータをもう一度チェックして、政府の許可を再度受け直すよう指示しただけだった。

 1977(昭和52)年4月、内藤は旭日賞を受勲した。彼は仕事の関係でアメリカを含む世界各地に出かけた。彼は1982(昭和57)年7月に他界した。ミドリ十字はロサンジェルスに巨大な新社屋の建築を計画している。この建物は内藤博士にちなんで名付けられることになっている。
※このような人権を無視した新薬の開発はこの後にも続き、薬害エイズ事件に発展する。以下、ウィキペディアより
薬害エイズ事件(やくがいエイズじけん)とは1980年代に、主に血友病患者に対し、加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件である。
原因は、ヒト免疫不全ウイルス (HIV) に感染したと推定される外国の供血者からの血液を原料に製造された血液凝固因子製剤を、ウイルスの不活性化を行なわないままに流通させ、治療に使用したことである。後にウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したため、従前の非加熱で薬害の原因となった物を非加熱製剤と呼ぶようになった。HIVに汚染された血液製剤が流通し、それを投与された患者がHIVに感染して、エイズを発症したことから多数の死者を出した。
世界でも日本だけは加熱製剤が開発された後も2年4ヶ月以上の間放置されたままなかなか承認されず、非加熱製剤を使い続けたためにエイズの被害が拡大した。1989年5月に大阪で、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して損害賠償を求める民事訴訟が提訴され、1996年2月に菅直人厚生大臣が謝罪し、3月に和解が成立した。
この時製造販売で提訴された製薬会社は、当時のミドリ十字(現在の田辺三菱製薬)と化学及血清療法研究所であり、輸入販売で提訴された製薬会社は、バクスタージャパン(日本トラベノール)と日本臓器製薬、カッタージャパンを合併承継したバイエル薬品である。また、カッタージャパンの該当非加熱製剤を発売元として大塚製薬と、同じくバクスター製の同種製品の輸入発売元として住友化学(現在の大日本住友製薬)の2社も非加熱製剤を発売していた時期があり、無関係ではなかったが両社とも提訴されなかった。
裁判
1996年8月から10月に帝京大学医学部附属病院の医師だった安部英、厚生省官僚だった松村明仁、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。なお、安部の容疑は自らが担当した患者にHIVに汚染された非加熱製剤を投与して死亡させたことであり、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させたことではない。この裁判は2000年にミドリ十字の3被告人に実刑判決、2001年3月に安部に一審無罪判決、9月に松村に有罪判決が出た。上訴中に認知症を患い2004年から公判が停止されていた安部は2005年4月25日に死去した。2008年3月3日、松村に対して最高裁は上告を棄却した。
なお、松村については、1985年から6月にかけて投与された患者に対する件については高裁段階で無罪が確定したが、1986年4月に投与された患者に対する件では、1986年1月に加熱製剤の日本における販売が開始され、十分な供給量を確保することが可能となったにもかかわらず、非加熱製剤の回収などの措置を講じなかったとして有罪判決が言い渡されている。
1996年8月9日にミドリ十字の当時の取締役に対する株主代表訴訟が起き2002年4月に和解した。株主代表訴訟の和解条項などに基づき、2006年5月以降社内に調査委員会を設置し、ミドリ十字が当該事件の惹起を防止できなかった原因を調査検討した。その結果、2007年7月9日に薬害事件の再発防止策に関する提言を含む報告書を取りまとめ、提言を受けた改善策と併せて公表した[1]。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
謝金文(男、71歳)の証言
3、王図福は、人力車をひくので生活していました。殺された時は50歳余りでした。ある日、彼が掃帚巷や衛三や竹行の付近で、手に入れてきた衣服を天秤棒で担いでいて、後ろに王の妻や子供たち数人が付いていましたが、日本軍は人に遭えば殺すもので、日本軍は王が物を担いで前を歩いているのを見て、銃で両手を持ち上げ、王を撃ち殺しました。途端に妻と子供が死体に取りすがって慟哭し、その様のすさまじさは見るに忍びないものでした。
4、楊儍子は、殺された時50歳足らずでした。ある日、厠に行ったところを、日本兵2人に見られ、日本軍の1人が楊を撃って傷つけ、もう1人が又一発発砲して、その場で楊を撃ち殺しました。
 4人は、生前みんな南宝塔根の住民でした。(以上:肖中煌が記録)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆血液銀行からミドリ十字へ
 731部隊の2代目の隊長だった北野政次元中将は、戦後かつて彼の部隊のための人材スカウト係だった田宮猛雄の下でワクチンの製造会社を作ったが、破産させてしまう。しかし、朝鮮戦争が始まって間もなく、一時はマリー・サンダースの通訳だった内藤良一が日本血液銀行を設立し、北野も参加するよう頼んだ。北野は東京支店長になった。日本血液銀行を設立する前に自分の医院を開いた内藤は日本の医学界で有名になった。彼は血液銀行を、非常に成功した多国籍企業ミドリ十字に変身させた。大阪ベースの国際的医薬品製造の大会社で、多くの731部隊の元隊員を雇い入れ、インターフェロン、プラズマ、人工血液などの製造を専門としている。内藤はこの会社の副社長となった。北野も重役に名を連ねた。1973(昭和48)年に内藤はこの会社の社長となり、1978(昭和53)年には会長になった。この会社の1985(昭和60)年の推定利益は60億円だった。ミドリ十字は大規模な研究所を持つロサンジェルスのアルファ・セラビューティック社やイングランド州ノーフォークのアルファ・セラビューティック英国社などの子会社を持っている。
※内藤らが設立したミドリ十字は大きな医薬品会社になったが、そこで行われた臨床試験などは731部隊で行っていた人体実験と本質的に変わらない人権無視の試験だった!!
ミドリ十字(ウィキペディアより)
 関東軍防疫給水部731部隊で活躍した内藤良一が中心となって設立。人工血液製剤製造のトップ企業となる。
1967年に赤痢予防薬の臨床試験を陸上自衛隊員を対象として行った結果、1089人中577人に急性食中毒が生じた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の痕があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。
内藤良一の死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。具体的には、当時の副社長には元薬務局細菌製剤課長補佐、取締役には元薬務局企画課長補佐、薬事部長には薬務局経済課長補佐経験者などがいた。政・財・官の癒着構造が、当時血友病患者らによってエイズ感染の危険性を指摘され始めたにもかかわらず、非加熱製剤の使用を許容させ、また当時は加熱製剤自体が新商品であった要因も加わり、ミドリ十字をはじめ、化学及血清療法研究所、バクスタージャパン(日本トラベノール)、日本臓器製薬、カッタージャパン(→バイエル薬品)など主だった企業による薬害エイズ事件が引き起こされることとなった。
なお薬害エイズ事件など一連の問題で経営が悪化し、1998年に吉富製薬に合併され(事実上救済合併)、法人格は消滅した。その後三菱ウェルファーマとなり、現在は合併して田辺三菱製薬となっている。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
謝金文(男、71歳)の証言
 1937年の暮れに、日本軍が南京を占領する前に、家中の者が既に南京を離れ安徽省(あんきしょう)の含山県に避難しました。私は左足が自動車にひかれて傷し変形して、松葉杖を突いているのと、私は大豆のもやしを造るので、家には7部屋のわらぶきの小屋と、木の桶が百余りと、大きなかめが6つあって、看ている必要があり、それで私は行きませんでした。1938年の1月と2月に、私は隣近所の人たち4人が、前後して日本軍に殺害されるのをこの眼で見ました。
1、劉小三子は、殺された時40歳余りでした。彼は豆もやしを造っていて、ある日元々は国民党の倉庫だった所(今の南京刀具廠や内燃機配件二廠の場所)へ食べる米を背負いに戻って行きましたが、その時は倉庫の戸が開いていて、管理している人が無く、劉が倉庫の門を出る時に日本軍に見つかり、日本軍は直ちに劉に向けて一発射撃し、死ななかったので、二発目を撃って殺害しました。
2、郭三債子のわらぶきの家屋が、日本兵に火を放たれて焼け、日本軍が行ってしまったところで、郭がバケツで水を運んで消そうとしましたが、その時に日本軍が振り返って郭三債子が火を消しているのを見、すぐさま郭を押し倒し、銃剣を抜いて郭の顔を一太刀つつき、続いて又身体を数太刀むやみにつついて、その場で郭を井戸のそばに死なせました。日本兵は郭を殺害してから、死体を井戸の中に押し入れました。あの時郭は50歳足らずでした。(肖中煌が記録:明日に続く)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
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●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆関東軍参謀で天皇の従兄弟
 さらに続けて「個人的な立場から、来るべき東京オリンピック大会も同じ方法を採用するよう提案したい。それ以上にこのような集まりを決して外交上の口喧嘩大会にしてしまってはならないのだと書いている。
 その次の年『ジャパン・タイムス』は竹田の人物紹介の記事を載せて、次のように書いている。

 彼の机の脇に掲げられた真実、公正、善良の文字は彼の人生の道しるべとなっている原則を示している。皇族の大儀(大義?)を擁護したいのなら、この議論に関しては竹田恒徳よりも完璧なモデルは捜しても他にない。
 真実を追求するという彼のモットーにもかかわらず、今では引退して東京に住んでいる竹田は731部隊について語ろうとしない。

※1964年に東京オリンピックは開催されたが、日本が犯したアジア・太平洋戦争の爪後はその当時相当残っていたのではないか?アジアの人々が「日の丸」「君が代」を見たり聞いたりしたら、戦争中の暗い記憶がすぐに蘇ってくるだろう!!竹田自身、日本軍がアジアで何をやったかを一番よく知っていたはずだ!!外交上の口喧嘩などでおさまる話ではないと思う!!私は東京オリンピックで「日の丸」「君が代」がどのように処理されたのか知らない!!日本人で戦争に行った者で心ある人ならば、「日の丸」「君が代」を見たくも、聞きたくもなかったのではないか?今、現在はサッカーのワールドカップでテレビでは当たり前のように流すが、私は「日の丸」も「君が代」も見たくもないし、聞きたくもない!!
 竹田に限らず、他の皇族、731部隊の幹部連中も、戦後みな申し合わせに従い、731部隊のことを公に話さず、隠ぺいし続けた!!勇気ある発言をしたのは、下級隊員に多かった!!
 彼の掲げた「真実・公正・善良」と戦時中の彼の行動はどう結びつくのか?ほとんどの日本の軍人は戦時中のことを語らず隠し、戦後活躍した!!もちろん、戦友会などの圧力もあったのだろう!!組織ぐるみで隠ぺいした!!
 ジャーナリストの西里扶甬子氏が竹田にインタビューした時の模様が書いてある一節がある。(『生物戦部隊 731』あとがきより)
【ピーターに頼まれて、関東軍参謀で、昭和天皇の従兄弟の竹田宮(戦争中は宮田と名乗っていた)のインタビュウのコーディネートと通訳の仕事をした。武田恒徳(つねよし・・竹田宮の戦後の名前)は自宅から、道路を隔てて坂を少し登った、高輪プリンスホテルのロビーに私たちを案内した。武田はシャンデリアの下に座って「ここは私の家の居間だった」と言った。戦争直後の皇族返上の話から、関東軍参謀当時、731部隊とどのようにかかわったのかという質問にたどり着くのに長い時間がかかった。質問が核心に触れたとき、新聞記者2年目のピーターの膝が震えていたのを見て、私自身も緊張して、口のなかが急に渇いてしまったことを懐かしく思い出す。2人ともプロ根性がまだ少し足りなくて、テープレコーダーを回す余裕がなかったため、このインタビュウを証明する証拠は今何も残っていない。暴露的回顧談というようなことは一切なくて、むしろ帝国陸軍のイメージと自分を結び付けられることを嫌っているようだった。】
※皇族は皆731部隊に関しては語らないであろう!!昭和天皇の戦争責任に大きく関係するから!!戦後、皇族たちは何も戦時中なかったかのように、皆紳士的に生きた?自己矛盾はなかったのか?

以下の文でも731部隊については何も書かれていない!!
「日華事変と山西省」
お忍びで太原を訪問した元宮様
日本オリンピック委員会(JOC)会長を務め、戦後日本スポーツ界の発展に尽力した故竹田恒徳氏。1987年、中国政府はオリンピック復帰の橋渡しをした彼に、答礼の意味を込めて二週間の中国旅行に招待している。そこで彼はお忍びで太原を訪れている。

彼は戦後皇籍を離脱した元宮様だ。戦前は竹田宮恒徳王と呼ばれた。明治天皇の意向で皇族男子は全員軍人になることが慣例で、竹田宮は騎兵将校だった父のあとを継いで陸軍を選んだ。陸士42期陸大50期。騎兵第十四連隊勤務を経て、1938年(昭和13年)8月から一年ほど、山西省を担当した第一軍に作戦参謀として勤務している。

二週間の旅行の公式スケジュールでは、成都、桂林、西安、河南少林寺、北京などを訪れたことになっている。しかし昔勤務していた第一軍司令部をひとめ見たいと内緒で太原に日帰りで立ち寄ったそうだ。太原で案内をしたのが戦争体験談で紹介している李献瑞さんだ。太原第一軍司令部は四階建てに瓦屋根、車廻しの正面玄関がある立派な建物で、その風格は関東軍司令部にも負けない威風堂々としたものだ。今でも外観をほとんど変えずに人民解放軍が使っている。李さんが案内すると彼はとても喜んだが、そのうち写真を撮りたいと言い出した。軍事施設で撮影禁止だったが、李さんはどうしても彼を説得しきれず、結局、司令部前を車で走りながら車内でカメラを構えるというスパイまがいの手で写真を撮ることになった。李さんは冷や汗をかいたが、彼は戦友会で自慢できると喜んでいたという。

彼が第一軍に赴任したのは1938年(昭和13年)8月で、当時司令部は石家荘にあり、太原に移駐するのは翌年2月のことだ。太原での司令部勤務は半年ほどの短い時間だったが、竹田宮にとっては思い出が深かったようだ。彼は第一軍で初めて参謀勤務を経験したわけだが、その時に練った作戦計画は梅津司令官から四回も作り直しを命じられたという。彼が赴任したとき、第一軍は臨汾に戦闘司令所を設けており、そこでの中国家屋での生活はネズミに悩まされたというから、太原に引越した時には別天地にさえ感じたかも知れない。ちなみに第一軍赴任時に半年ほど蓄えていたカイゼル髭は、実はメンソレータムで形を整えていたという。後に写真を見た昭和天皇が似合うと述べられたという。自伝でのちょっとしたエピソードだ。

竹田恒徳氏は中国旅行から五年後の1992年に亡くなった。83歳だった。元宮様の中では戦後最も成功した人と言われている。

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
李徳標(男、62歳)の証言
 1937年の冬に、日本兵が南京を占領しましたが、あの時私はやっと15歳でした。その時私と父とは栖霞寺の難民キャンプに入りました。ある日、私は栖霞寺の外で遊んでいて、日本軍が若くてたくましい男子の一群を連行して御花園の方向から下って来るのを見えましたが、みんなで27人でした。後で聞いたのでは、その人たちは頭に帽子のたががあり、手にたこが出来ていて、中国兵だったと日本軍がみなし、長江の岸辺に連行し機関銃で掃射して、集団殺害したのでした。(周士発が記録)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
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●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆関東軍参謀で天皇の従兄弟
  戦争直後竹田宮恒徳(つねよし)は千葉県で牧場を経営した。竹田は宮田という変名で関東軍司令部と731部隊をつなぐ要の役割を果たしていた。占領軍の命令により、明治天皇の孫に当たる竹田は皇族の身分を剥奪された。1951(昭和26)年、日本政府は竹田を含む2000名にのぼる大佐以下の旧軍将校の公職追放を正式に解除した。彼は日本体育協会の会長となった。1962(昭和37)年10月、彼は日本オリンピック委員会の委員長に任命された。
 日本スケート連盟の会長として、竹田はソ連を含む世界各地を広く旅行した。日本がスピードスケート世界選手権大会のホスト国を務めた後の1963(昭和38)年、竹田は『ジャパン・タイムズ』の記事の中で国際感覚について彼が考えていることを明らかにしようと決意する。スケートの国際大会で国際スケート連盟と日本の政府役人との間で、国旗掲揚と国歌吹奏は非政治的で平和的な国際大会の目的に反するのではないかという議論がなされた。
 「我々の軽井沢大会での国旗・国歌を使用しない方針は間違いなく成功を納めた」と竹田は書いている。
※竹田は、戦時中自分が勤務した関東軍で731部隊や100部隊に関わっている。「日の丸」や「君が代」が侵略のシンボルとして強く竹田の脳裏の中にあったに違いない!!
竹田は、戦時中何をやっていたかは以前のブログに書いた。もう一度紹介すると、

『死の工場(隠蔽された731部隊)』(シェルダン・H・ハリス著:近藤昭二訳)より
10章「誰が知っていたのか?」
竹田宮は20数年前、日本占領下の満州で任務に従事した。そこで彼は、主席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションに就いた。そういう地位の人間として、彼は満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際は、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満州にある他の死の工場も視察したはずである。
 竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

また、ウィキペディアで竹田を調べると全く731部隊のことには触れていない!!
【太平洋戦争には大本営参謀として、比島攻略、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は『宮田参謀』であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月に中佐に昇進、8月に関東軍参謀に転出した。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第一総軍参謀として内地へ戻り、間もなく終戦を迎えた。因みにこの時、王の後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三中佐である。終戦時には天皇特使として再び満州に赴き、関東軍に停戦の大命を伝えて武装解除を厳命した。
1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱する。以前から皇族が多いことに問題を感じていたため、あまり抵抗は無かったと言う。さらに「“竹田”と言う名は他の宮家と違い、ポピュラーで気に入っている」とも語った。皇籍離脱に伴い一時金が与えられ、この金を目当てに近寄るものが後を絶たなかったが、全てを丁重に断った。】
竹田の場合皇籍離脱は、占領軍の命令だった!!GHQは竹田が戦時中どのようなことをやっていたかを知っていた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
張静芝(女、54歳)の証言
 1937年には、私は7歳で、家は燕子磯の三台洞渡師石村でした。12月13日に、日本兵が南京を攻め落としました。家の近くでは、少なくない国民党の将兵やラオパーイシン(=庶民)が命を全うしに南京から長江を渡ろうとしていて、夜、長江の岸辺ではラオパーイシンの救いを求めるわめき声が絶え間なく伝わって来ていました。私は日本軍が中国のラオパーイシンを2列にし機関銃で集団掃射しているのをこの眼で見ました。上元門の大○子の近くは死体がびっしりで、歩く時に足が当たってばかりいて、その時、大○子の近くに屍の畦が5本できたのでした。(曹望鴻が記録)※○は日本の漢字に変換できない字
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆731部隊関連科学者たちの戦後
 川上善博士は京都帝大時代からの石井の同輩で、平房で伝染病に対する人種による抵抗力の違いを調べる研究を中心になってやっていたが、満州で死亡している。
 終戦間際に徴兵されて平房へ行った若き血清学者の秋元寿恵夫博士は、医の倫理を問う本を書いたが、731部隊で受けた精神的な傷が元で、学者としてのキャリアを放棄してしまった。彼は「私は死ぬまで後悔し続けるだろう。30年間黙っていたが、それで何かが変わったわけではない。あの人たちはみな私の友人だったし、彼らをとがめる勇気は私にはなかった」と述べている。秋元は現在昔の同僚たちとは一切接触を持っていない。
 「彼らが全く恥じていないのにはただ呆れるばかりだ。彼らが満州でやったことは愛国心とは何の関係もない。化け物のようにふくれ上がったエリート意識があんなことを許したのだ」。秋元はこのように言葉を続けた。
 山西省にあった731部隊の分遣隊の主計部の中尉だった鈴木俊一は東京都知事であり、自民党右派の主要なメンバーだった。鈴木の居た分遣隊は人体実験には関わっていなかったが、彼は731部隊の残酷な秘密を知っていたことを認めている。
 サンダース中佐の調査中アメリカ側に渡される731部隊の科学情報の内容をチェックして、そのほとんどを阻止した新妻清一は、東京の防衛庁の防衛研究所に入った。彼は1989年現在80代で、旧陸軍将校のための戦友会を主催している。
※先日99歳で亡くなった4期16年に渡って東京都知事を務めた鈴木俊一も731に関わっていた。彼も戦争中のことは反省せず、自民党に属して活躍した。人体実験に関わっていないが、ドイツであったら過去を問われて公職追放になっていたのではないか?
 どういう訳か知らないが、ウィキペディアを見ると『北京の名誉市民』になっている。驚きだ!!また、何が評価されたのか分からないが、昭和天皇に尽くしたのだろう。戦争の最高責任者から、勲一等旭日大綬章というのを受賞している。
 私は秋元博士は本当に人間らしいと思う。彼は731部隊に行ったが人体実験には関わらなかった。しかし、その実態を見て大変なショックを受けた。健全な精神を持っていれば皆そうなるのではないかとも思う。731部隊では自殺した医学者もいただろう!!
秋元博士が書いた『医の倫理を問う』という本には731部隊に先に行っていた同じく東京帝大出身の同僚のかわりはてた姿が描かれている。
『医の倫理を問う』(秋元寿恵夫著:勁草書房)より
2、吉田の源さん
 ・・・
 それは、私が昭和19年(1944)5月末、その前年の9月に再婚したばかりの妻を伴って任地へ赴く途中、満州国での第一夜を過したハルビンの宿に、歓迎の意を伝えるべく訪れてくれた旧友の口からはじめて、部隊の秘密をおぼろげながら聞き知ったときのことである。
 その旧友というのは吉田源二陸軍技師であり、この人は旧制第一高等学校を経て昭和9年(1934)に東京大学医学部を卒業後、いつ頃から第731部隊に勤務するようになったのかは知らないが、当時は第4部二木班に所属していた。
 この吉田技師を旧友とよぶ所以は、かつて私は昭和4年(1929)4月、一高に再入学した時には同校の3年生であったばかりでなく、彼はその頃誰知らぬ者がなかったほどの向陵(一高)切っての名物男でもあったからである。
 だが、彼にハルビンの宿で久し振りに再会した私が、何よりもまず衝撃を受けたのは、(君が来てくれたのはうれしいが、それにしてもとんでもないところにやってきてしまったもんだなあ。君は知っていたのか、知らずにか)という彼からの質問がきっかけで始まった部隊の話であったが、それにもまして驚かされたのは、彼の変わり果てた面影であった。
 私の記憶の中で生きていた吉田の源さんは、豪放らい落を絵に描いたような、典型的な一高健児であった。そして、数々の向陵物語でおなじみな記念祭とか、全寮茶話会とか、あるいはまた一高三高対抗野球戦とか、寄宿寮ストームなどでは、必ずと言ってよいくらい高吟乱舞をほしいままにしていた彼の姿を見るたびに、私は「友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う」という寮歌の一節がそのままのかたちで演じられている感に迫られたものであった。
 それがどうであったろう。ハルビンの宿で目前にした吉田技師は、相手をまともに見ることはせず、いつも伏し目勝ちで、話す言葉には弾みがないのでぼそぼそと聞きづらく、あまつさえその口もとにはうすら笑いさえ浮かべていたのである。
 しかもそれは相手に対してというよりは、多分に自分自身へ向けての侮蔑の現われであることはたやすくみてとれた。それにしても、かつては豪傑笑いとよく噂された、明るい、いかにも屈託のなさそうな彼のあの笑いがいつも間に、こんな後ろめたい、謎めいたものに変わってしまったのか。
 そのほか、彼の身のこなし方にも以前とはすっかり違ってしまっているところがあるのに気がついた。たとえば、両肩をすぼめ、前かがみになって歩く彼の後ろ姿などは、その身につけているカーキ色の軍属服とはおよそちぐはぐな感じであったし、それやこれやが重なり合った彼の変わりようは、(これがあの源さんなのか)と、しばしわが目を疑いたくなったほどのものであった。
 私はその後も、しばしば彼とは話し合ったこともあり、それに間もなく彼が二木班でどのようなことをやっていたのかを知るに及んで、初めてすべてが残りくまなく解き明かされたのである。そして私は改めて、ドイツ浪漫派作家が好んで題材にしたあの「悪魔に影を売り渡した男」は現実にも存在しているのであって、決してとりとめもない空想の産物などではないことを思い知ったのであった。
※高校時代には吉田も明るい明日を夢にみて、自分を鼓舞したのだろう!!だが、戦争は本当に人間をおかしくする!!
ちなみに二木班ではどんなことをやっていたか?『死の工場』(シェルダン・H・ハリス著:近藤昭二訳:柏書房)より
 二木秀雄博士は、結核についての彼の実験に関して報告する中で以下のように記している。カルメットバチルス(BCG)を扱った人体実験においては、「すべての実験体が回復をみた」が、ヒト型結核菌を扱った試験においては、「すべての投薬が粟粒結核症をひき起こし、10.0ミリグラム注射された被験者については1ヶ月以内に死に至り、他の者も重病になり前者より長くは生きたものの、後におそらく死んでいる」。別の試験では、「〔薬剤の〕注入後直ちに熱を伴った激しい症状が現れ、その後1ヶ月で死に至っている」。二木は満州の子供たちを使って実験し、陽性のツベルクリン効果を達成している。彼は、結核病原菌の「オリジナル・ストック」を「自然状態」から採取した―「病毒性は、人体実験材料に感染させることで保存された」。二木秀雄博士の実験は、結核が細菌戦の戦略としては効果的なものでないだけに特にぞっとするものである。通常、結核は効いてくるのがゆっくりすぎて、細菌兵器に求められる効果的なインパクトを得ることができなかった。それゆえこれらの実験は、純粋に学問的な目的で、被験者たちの命を犠牲にして行われたと結論づけるのが合理的である。
 ●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
夏良春(男、57歳)の証言
 1937年には、私はやっと11歳で、その時私の家は東家辺村でした。夏良華が日本軍に殺害された場景を、今でも私は昨日のことのように覚えています。
 夏良華は甘家巷の人で、その時30歳ほどでした。日本軍が南京に攻めて来てから、彼は私たち東家辺村に避難してきました。ある日、日本軍が村にやって来ると知って、年寄りや子供が留守番に残ったほか、あらゆる青壮年が山に上って隠れました。夏良華は自分の女房が日本軍に踏みつけにされるのを恐れて、女房を迎えに山の下へ行きました。余乗華の家の門の所で、日本軍が彼を見て、呼び止めました。余さんの門の所にアルミの飯ごうがあり、余乗華が犬に餌をやるのに使いました。日本軍がそれを見つけて、中央軍が来たことがあるとみなし、夏良華を中央軍だと疑って、彼を村の井戸の辺まで引っ張って行き、日本軍が1人一しきりぺちゃくちゃしゃべり、銃を構えて撃つと、一発がちょうど夏の胸に当たって、彼はその場で地によろめき倒れました。日本軍はそれでも安心いかず、またやって来て横から一発追加しました。こうして夏良華は日本軍に殺害されたのです。その時私たち村中の年寄りや子供がみんな門の所でのぞいて見ていたのですが、誰も声は立てられませんでした。(李家坤が記録)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
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南京への道:史実を守る会
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●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆731部隊関連科学者たちの戦後
 元隊員の多くが開業したり、事業家として成功した。
 シンガポール防疫給水部隊隊員で、アメリカで黄熱病のウィルスを入手しようと画策し、ノモンハン事件では石井の防疫給水部隊の一員として参加した早川清博士は、早川予防衛生研究所の経営者となり、戦争中に獲得したワクチン製造の技術を利用した。
 石井の腹心の部下であり副官だった増田知貞は戦後千葉で開業した。オートバイで往診中トラックと衝突。1952(昭和27)年4月5日、頭部の重傷がもとで、51歳で死亡した。
 731部隊の結核研究班の班長だった二木秀雄博士は、S.J.社の社長となった。
 731部隊の設立当初から隊員となった軍医の1人で、第2部部長でもあり、常徳に対する細菌爆弾攻撃を指揮した太田澄博士は、山口県の古い城下町萩に戻り、開業した。彼の友人の話によると、太田は2人の娘が死んだ後、自殺したという。
 平房のペストの研究者の中でも指導的立場にあった高橋正彦は、千葉県の茂原にクリニックを開き、開業医となった。
※増田や太田は南京の栄(さかえ)1644部隊の部隊長だった。事故死や自殺をしているが、その他の隊員は経営者として成功したり、開業医になっている。人間の人生についてよく私は分からないが、悪いことをしたら、人間が裁判よってその人間を裁くというのもあるが、それとは関係なく、やはり業というものがその人の人生に影響を及ぼすこともあるのか?娘の死や自殺、事故死をどのようにとらえたらいいのだろうか?でも中には事業の成功により儲ける者もいた。人生は全く不可解なり!!
 ●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
王琰(男、63歳)の証言
 時間が長く、私1人ただ家にいるだけで退屈し、両親も遊びに出しませんでした。しばらくして、私は埋葬隊の人たちと入魂になり、その人たちが毎日朝ごはんの後、トラック2台で屍を埋めに出かけるので、こっそり車に這いあがって遊びにくっついて行きました。その時は鼓楼から南はまだ道行く人の往来が無く、埋葬隊が道沿いに手近な所で屍を埋葬しました。初めの時は、私は屍を3つ見ましたが、若い婦人のそばに2歳くらいの子供がいたのと、爺さんが頭を何太刀も刺されていたとで、その地点は上海路でした。三山街の場景は見るに忍びないもので、地に倒れているのが男もあれば女もあり老いたのもいれば若いのもいて、ある屍は既に野犬に半分食われてしまっていました。埋葬隊は初めは葦ずを1枚使い屍を真ん中に置いて端を折り畳くくって埋めましたが、やがて葦ずが無くなってしまいました。ある日陰陽営へ行ったら、道の北側の沼にほとんどいっぱいに屍が詰まっているのが見え、埋葬隊は熊手で屍を引きずり、引きずり上げた全部を陰陽営路の南の高台の上に埋め、穴1つに数百人埋めました。何年か前に陰陽営で掘り出した「白骨坑」がその穴です。一度私は車について養虎巷まで行きましたが、ほとんどの家の囲い塀の中に犠牲者の屍がありました。
 埋葬の仕事はだいたい1938年の夏までかかりました。時が経って屍が腐乱し手では抱えるわけにはいかず、埋葬隊は柄の長さ50センチの大きな鉄のシャベルを2つ注文してつくり、屍を片付ける時にシャベルの1つを頭に、もう1つのシャベルを足に添え屍を葦ずの上に平らにし、それから郊外に運んで埋めました。(以上:王琰自身が述べたもの)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆731部隊関連科学者たちの戦後
 かつて東京帝大伝研の第4部部長で、人体実験のために南京防疫給水部隊を訪問していた小島三郎教授も、戦後厚生省の予防衛生研究所に入り、1954(昭和29)年所長になった。かつて出版された書物の中では軍国主義支持を表明していた小島だが、戦後はトーンを劇的に変化させている。生い立ちの記の中で、陸軍幼年学校の入学試験にどのように落ちたかを述べて、冷静に次のように書いている。

 あの時陸軍が私を合格させていれば、後になって日本がこの“聖戦”に参加するのを阻止するために最善を尽く す策士を手中にしたことになったのだ。そうすればおそらく日本にとってはもっと幸せな歴史が展開していただ ろう。

 1963(昭和38)年のアメリカ諜報機関筋の情報によれば、第100部隊の隊長だった若松有次郎は国立予防衛生研究所にあって、小学生の間の百日咳流行をさかんに研究していた。
10年間731部隊の植物伝染病のエキスパートだった八木沢正博士は、日本ペニシリン協会の事務長となり、抗生物質協会にも入った。また国立予防衛生研究所でも仕事をした。
※このように様々な学者が731部隊で活躍していたことが分かる。小島は防疫研究室の嘱託として731に間接的に関わり、若松はあの長春にあった731部隊の姉妹部隊、第100部隊関東軍軍馬防疫廠の隊長である。
小島について内藤良一の話が載っている。(『医学者たちの組織犯罪:常石敬一著:朝日新聞社』)より
【東大の先生にもいろいろ頼んだ。ただ医学部よりも、細菌学者が集まっている伝研(東大伝染病研究所のこと)とのつながりが強かった。特に、何人かの先生には防研の嘱託になってもらい、月数回来てもらっていた。また、こちらから出かけることもあった。嘱託研究者の顔ぶれは小島三郎、細谷省吾、それに乾燥BCGを作った柳沢謙などの先生方だった。それ以外では大阪の谷口腆二先生、慶応の小林六造先生などにもお願いしていた。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
王琰(男、63歳)の証言
 何日かして、父が私の前から住まっていた所は安全でないと見、家中の者を「紅十字」会の建物の後ろの葦ず張りの小屋に引き移らせましたが、その日もう1人の年老いたお婆さんも15、6歳の孫娘を連れてきて住まったところ、日本兵が2人入って来てその娘さんを強姦してしまい、2日後に、お婆さんたちは引き移って行きました。
 半月ほど後に、難民区の中に日本軍がたくさん闖入し、男性の青壮年と見ては捕まえ、全部で千人余り捕まえて、山西路の広場(今の鼓楼区図書館の門口)に集め、周りに機関銃を据え付け、売国奴の栄光が話をしたのでは、妻子ある者は引き取らせ、引き取る人のない者は連れて行くということで、その時私と姉の夫もその中にいて、母と姉とが引き取りに出て来ましたが、ほとんどの人はやはり連れて行かれ、集団銃殺されてしまったと思われます。
 やがて、難民区の中は少し静かになりましたが、しょっちゅう日本兵が闖入して来て姦淫したり略奪したりしました。私はやることが無く自転車に乗る練習をしました。ある日、寧海路か乗って莫乾路の方へ行ったら、日本兵とぶつかり、自転車をかっぱらわれてしまいました。当時難民区では「セーター、自転車、腕時計、日本軍に見られたら逃げ切れない」と言う言葉がはやりました。(王琰自身が述べたもの:明日に続く)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍・空軍の参謀総長じきじきの命令である」
 最高司令官というのは、トルーマン大統領のことである。文書末尾にはC・A・Wのサインがあり、これこそチャールズ・A・ウィロビーの署名だった。・・・・
 この時期、このファイルの機密保持はそれまで以上に重要だった。「東京裁判」のソ連検察局から、石井部隊に関する思わぬ要求が突きつけられていたのである。(268)
・(草案の段階で)この草案に対して、異議を唱えたのは極東委員会の国務省委員だった。国務省は、石井及び協力者に、そのような確約を与えることはできない、と申し立てた。そうした保証を与えなくなくても必要な情報は入手可能であり、むしろ保証を与えることは、後日、米国に深刻な事態をもたらす原因となりかねない、というのである。(328)
●国際検察局の動き
・キーナン(首席検察官)は16名の検察官をアサインメントAからHの作業グループに分けた。モロウは「アサインメントB」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することになったため、その日の米軍機関紙に目を奪われたのである。そこにはジェネラル・イシイの尋問が終わったとあり、この部隊の犯した捕虜への人体実験や大がかりな細菌戦研究、ペスト菌爆弾などについても報告されていた。これこそ中国における日本軍の残虐行為を担当する自分が扱うべき重大問題だと、持ち前の正義感で奮い立ったことだろう。(234)
・ようやく手に入れたキーナン宛ての覚書には、それから始まる調査の方針が記されてあり、63項目にわたる必要文書を列挙、末尾に「細菌戦」と書かれてあった。
 モロウは『チャイナ・ハンド・ブック』という本を引き合いに出し、中国の衛生署署長、金宝善博士の報告を引用している。
「1942年4月、最低5回、日本軍は中国において細菌戦を行ったという中国政府や外国人の確かな証言がある。さらに、1942年8月30日には6回の試みがあった。・・・・」
 モロウは続けて、金宝善博士がまだ健在なら尋問すべきだし、彼とともに活動していた専門家が見つかったら裁判の証人として出廷するよう手配すべきと綴り、以下のように記している。
「これに関連し、署名者(モロウ大佐自身のこと)は国際検察局調査部に文書を送付し、可能なら、ジェネラル・イシイの尋問をアレンジするよう要求している」
 続けて、2月27日付の「スターズ&ストライプス」紙の記事に触れ、こう続けている。
「この問題は重要である。細菌戦のような戦法はたんなる戦場や戦地の指揮官が開発することは不可能であり、東京本部の指令で行われていたはずである」(235)
 モロウは「スター&ストライプス」紙を読んで石井四郎のことを知ったばかりである。
平房の巨大な本拠についても、その背後にあった石井機関についても、その闇の深さについても、もちろん何も知らなかった。とはいえ、細菌戦のような戦法は、現場の指揮官の石井1人で開発することは不可能であり、東京にいる参謀本部の誰かが命令して実行させていたに違いないと判断したのは当然のことだった。(236)
・このメモを受け取ったモロウは、早速GHQ内線36番へ電話を入れた。その結果は、3月8日付でキーナン宛てに再び送った覚書に記されていた。「アサインメントB」と題する3頁のメモで、3月5日の覚書に記された調査の進み具合が報告されている。・・・・
「署名者(モロウ大佐)は数日前の『スターズ&ストライプス』紙に報道されたジェネラル・イシイの活動と細菌戦に関して、トンプソン中佐と参謀2部の技術情報部のD・S・テイト大佐に面会した。これは『チャイナ・ハンド・ブック』で報告された細菌戦に関連したものである。
 面会は結果からいうとネガティブであった。しかし、トンプソンは三井商事ビル5階のGHQ化学部主任化学将校マーシャル大佐について言及した」・・・
トンプソンはちょうど石井尋問を終わらせ、石井のパイロットだった増田美保薬剤少佐や佐々木義孝軍医中佐などを尋問していた時期にあたる。各尋問前には何らかのかたちで、戦犯免責が話し合われていた。そこへ、突然、「東京裁判」の検察官モロウが石井尋問を正式に求めてきたのである。トンプソンは思わず舌打ちしたことだろう。国際検察局が石井を尋問するなど、とんでもないと。
  それでもトンプソンはテイトとともにモロウに会った。トンプソンの口から、極秘命令で行われている石井部隊の調査について説明があったのかもしれない。
モロウは、「面会は結果からいうとネガティブであった」と婉曲に記した。トンプソンからも、石井尋問を言下に却下されたのである。モロウはその言葉になすすべもなく引き下がらねばならなかった、一行にもならない言い回しで「面会はネガティブであった」と記したのは、彼の憤懣によるものだったのか、あるいは石井尋問について何も覚書に記載するな、という命令を受けたものか。そのあたりはモロウの個人的な文書か日記が見つからない限り、推測するしかない。(238)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●ニュールンベルグ裁判
・米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュールンベルグ裁判」ではナチスの人体実験を裁いていた。英米仏ソの4大国による主戦争裁判のほかに、米国がニュールンベルグの地で開いた12法廷の中の第1番目の裁判で取り上げたのである。この裁判は「メディカル・ケース」と呼ばれ、被告23人の中で20人が医師、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。
「ナチスが行ったのは、低気圧実験、毒ガス実験、石灰酸注射実験、マラリア実験、発疹チフス実験など相互に脈絡の薄い幼稚なものであり、あえてその目的を求めれば、空・海戦からの帰還や、新占領地域の流行病に一部関係する、という程度のものである。その中でナチスが力を入れたのは労働可能なユダヤ人から子種を奪うためのX線や薬物による大量断種実験であった」
 ナチスの行った実験について米本昌平(三菱化学生命科学研究所)はこう書いている。
「メディカル・ケース」裁判は1946年12月9日から始まり、140日間の審議の後、翌1947年8月20日には判決が出た。23人のうち16人が有罪、7人に死刑が宣告され、1948年6月2日には執行されている。
 人体実験は医学研究のある段階では必要なものであり、それが道徳的に行われるにはどのような条件が必要か、判決文の中に示された。これが後に医療倫理の中で、「ニュールンベルグ・コード」として知られるようになった。(254)・・・
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●ドイツの細菌戦
米国は「ニュールンベルグ裁判」で人体実験を裁いているのに、ドイツの細菌戦部隊は裁かれなかった。
  2年後の1947年8月には、米海軍は「細菌戦に関する海軍の見解」をまとめた。そこにはドイツの細菌戦に関するさらに突っ込んだ調査報告がある。これによると、クリーヴェ教授はベルリン近くに実験室をもち、炭疽菌とペスト菌を絹の衣類の上や干し草や藁のなかで乾燥させた場合の生存能力について研究していた。ノミやシラミも研究されたが、感染させたネズミをパラシュートで落とすというプリミティブな研究の考察だった。マスタードガスを添加することで炭疽菌の威力がどう増すかという研究も考慮されたが、実用段階まで至らなかった。ドイツの細菌戦研究はヒトラーが反対していたことで、規模も小さく連合軍の脅威となるようなものではなかった。
 米国がもっとも心配したのは、ドイツの細菌戦だった。あれだけ医学の進んだドイツが細菌兵器に手を出したらという脅威は絶大だった。しかし、戦争が終わりドイツを占領した米軍は、瓦礫の中から大がかりな実験室も細菌製造工場も発見できなかった。(235)
※ニュールンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
 それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験によって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
 ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
●アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●朝鮮戦争
2つ目の「免責の系譜」を確認できる事件が、「日本ブラッドバンク」創立のおよそ半年前に勃発している。50年6月25日開戦の朝鮮戦争である。戦線がこう着状態にあった52年2月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国はアメリカ軍の細菌戦を非難する声明を発表。3月にはソ連のマリク国連大使が国連総会でこの問題を取り上げた。・・・・北朝鮮と中国が組織した科学調査団「国際科学委員会」の報告書は、この流行ペストについて?過去5世紀の間、朝鮮でペストが発生したことはなかった。事件のあった2月は土地の気候からみて人間のペストがはやるには3ヶ月以上早すぎる―などの理由から、「第2次世界大戦中日本軍が細菌戦に使った」ペストノミが原因と結論づけている。
またこうした内容を補強するかのように、報告書は以下の点を指摘した。
・52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が2回、韓国を訪問したとの新聞報道がある。
・石井四郎の助手がネズミの大量生産のために飼育所を運営しているとの新聞報道がある。
 一連の細菌戦疑惑と石井をめぐる上記の2つの指摘が真実だとすると、戦犯を免れた日本側と与えたアメリカ側との間に新たな“共犯関係”が成立する。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●参考ホームページ
東京裁判
天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺     
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
●ウィロビー
 明けて1946(昭和21)年1月8日、石井は帰国して金沢市内か周辺に隠れているという情報を敵対諜報部隊がつかんでも、ウィロビーは若松町に潜伏している石井のことを秘匿していた。彼の強引さと権力、自信をまざまざと見せつけてくれる。
 占領時代には数々の謀略事件が起きている。昭和史最大の謎とされる「下山事件」や「松川事件」、「帝銀事件」など、松本清張が「日本の黒い霧」と呼んだ事件の裏で策謀する参謀2部とその部下のキャノン機関などを陰で動かしていたのはウィロビーだったといわれる。しかし、ウィロビーの暗躍については未だに何も実証されず、すべて戦後裏面史の中へ消えて行こうとしている。石井の「終戦メモ1946(1945)」は初めて暗闇の中からウィロビーの謀略に光を照らしてくれる貴重な発見である。
 1月9日、ウィロビーはマッカーサーの許可を取り、マッカーサーの名前で日本政府宛にジェネラル・イシイを東京にエスコートし、総司令部に引渡すよう文書を送ったことが、どれほどの茶番だったか、いま初めてその謀略の事実が顔を出してくる。(294)
●服部卓四郎
・服部がウィロビーの肝いりで参謀2部の史実調査部長になったのは、1946年の12月以降であり、同年1月22日から2月25日まで飛び飛びに行われた石井尋問の時期に服部はまだ帰国していないはずである。しかし、タイプの特訓を指示したり、マキさんという通訳を連れて来たのは、服部だと春海は明確に証言している。トンプソン尋問の始まる1946年正月前のことだという。春海の記憶違いだとも思えない。
 服部は熱心な細菌戦推進論者で石井部隊との関係も深かった。1944(昭和19)年に入って、戦局が絶望的になってきた4月、石井を呼びつけて細菌兵器攻撃の実施が検討された。この時、参謀本部作戦課長の服部は、潜水艦にペスト菌あるいはペストノミを積んで、シドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェイに特攻攻撃するという提案を行っている。それだけ石井部隊の事情も知り尽くしていたため、戦後、この時期に帰国していたら、部隊を戦犯追及から守ろうとしただろうことは十分理解できる。(222)
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷した兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
●731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
●先の戦争で日本は、いろいろな残虐なことを行ったのだから、これを反省し、これからは、2度と戦争をしないようにと思う。その為には、非武装中立を誓い、いざという緊急時には国際世論に訴えて、紛争を平和的に解決しなければならない!!
地球のエコのためにも、世界の軍事力が減るように何かしら提言できればと思う。
軍の実験や軍事演習で使う武器弾薬によって、たくさんの貴重な自然の生態系が崩れている!!

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆731部隊関連科学者たちの戦後
 731部隊の凍傷実験を指揮して、文字通り人間を凍え死にさせた吉村寿人博士は、1950年代に京都府立大学医学部の教授となり後に学部長となった。彼は日本南極観測隊の顧問となり、1973(昭和48)年には日本気象学会の会長に任命された。5年後、彼の満州時代の実験が知られるところととなり会長の座を追われた。しかし吉村は、気象学会を辞めたのは結核にかかったからだと述べている。
  “環境適応学”における先駆的研究と、教育者としての仕事に対して、吉村は日本最高の栄誉を受けることとなった。1978(昭和53)年の天皇誕生日に、時の文部大臣が彼に勲三等旭日章を手渡した。彼はそれから神戸女子大学学長となり、冷凍食品や水産業者の業界団体の顧問にも名を連ねた。
  今となっては、吉村は凍傷実験が行われたことを否定はしていない。しかし彼はマルタは実験台になることで報酬を受けていたと主張している。実験に使われた赤ん坊は731部隊の日本人の女性隊員の子供で自発的に実験に参加したのだと主張している。
  731部隊の元隊員の多くが戦後国立予防衛生研究所に入っている。731部隊で赤痢を研究していた江島真平博士も、後に実験用マウスのウィルス感染の研究で仙台へ行った金子順一もそうだった。
※赤ん坊でも生体実験をやったとは驚きであり、残酷だ!!
 『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著:朝日新聞社)には次のような記述がある。
 【吉村の英語の論文は、後に新聞その他で、「生後3日の赤ん坊を摂氏零度の氷水につける実験をした」と批判された論文である。その論文中で彼らは次のように書いている。
 「6歳以下の子供については詳細な研究ができなかったが、赤ん坊についていくつかの観察を行った。図2に見られるように生後3日でも反応が観察され、反応係数はほぼ1ヶ月後に一定となるまで日々上昇が見られた」
 添えられた「図2」には、赤ん坊の指を摂氏零度の氷水に30分間つけた時の反応について、それぞれ生後3日目、1ヶ月後、6ヶ月後のものが記されている。これは同一の赤ん坊についての反応であろう。また実験はこの3回だけではなく、3日目以降、日をおいて連続的に行われたことを先に引用した「・・・・日々上昇が見られた」という記述は示している。……】
 ●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
王琰(男、63歳)の証言
 私と父とは同郷会の門の所に立っているしかありませんでした。少ししたら、車が1台来て、車のライトで私を照らし、日本兵が1人銃を両手で突き出しつつ刺してきたのを、私はひらりと体をかわし、父がすぐ体で私をかばいながら、懐中電灯で紅十字の肩章を日本兵に照らして見せたら、下級士官らしい日本軍の1人が手を振ってその日本兵を離れさせました。
 日本軍が敗残兵を縛る時、「敗残兵」と「難民」を全然区別しませんでした。蘇州同郷会の囲い塀の中でみんなで2,3百人縛られましたが、縄が無くてシーツを裂き、4人1列にし、そばで銃を持った日本軍が監視していました。
 やがて、逃げ戻ってきた字を彫る労働者が言うのでは、その人たちは下関の江辺まで連行され、車を降りるなり、後ろの機関銃が響き、人々が次々に倒れましたが、その人は一番端の列に立っていて、すぐに水に跳び込みました。機関銃がとまった後、その人は日本兵が銃剣を両手で持ち上げながら死体の堆の上を行ったり来たりしていて、死体がちょっとでも動いたら一太刀追加するのを自分の眼で見たそうです。その人は日本軍が行ってしまうまで水の中に隠れていたので、全身が凍ってかちかちになり、死んだ人の乾いた衣服を見つけて着替えその夜の内に城内へ逃げ戻ってきました。(王琰自身が述べたもの:明日に続く)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのか?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
※資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?(ノブ)
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●GHQ法務局(法務部)の動き
・731部隊の調査は、占領軍の法務局(部)ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・米軍が接収した横浜地方裁判所では、既に、1945年12月からBC級裁判が始まっていた。通例の戦争犯罪や俘虜虐待などを裁くBC級戦犯容疑者軍事裁判こそ、石井部隊の元軍医や部隊員がもっとも恐れるものだった。BC級では、違反行為を命じた者も、実行した者も、ともに有罪とされる。石井四郎も、各支部、姉妹部隊の部隊長も、彼らの部下も、とくに捕虜の人体実験に手を染めた者は、すべてBC級戦犯として裁かれる運命にあるはずだった。
  米国立公文書館には法務局が行った膨大な調査報告書も保管されている。それら文書を丹念に読み込んでいくと、日本軍の細菌戦に関する調査が広範囲にわたって進められていたことがよくわかる。とくに、調査部第330号《主題モトジ・ヤマグチ》というファイルには、詳細を極めた報告や部隊関係者の尋問記録が保存されていた。
 この調査の指揮を執ったのが、二ール・スミス陸軍歩兵部隊中尉だった。マッカーサーの意志に立ち向かったもう1人のアメリカ人である。(256)
スミス中尉がこの調査を進める中で、トンプソンの石井尋問について、どれくらい報告を受けていたか明らかではない。恐らく何の報告も受けていなかったろうし、石井四郎が参謀2部の管理下にあることも知らなかっただろう。
 国際検察局の検察官トマス・モロウ大佐が石井尋問も行えず、日本軍の細菌戦について訴追することもできなかったことなど知る由もなかった。国際検察局と法務局は同じ明治ビルに事務所を構えていましたが、情報交換は全くなかったのです、とドナハイは話してくれている。(258)
 それ以降の第330号ファイルを見ると、二ール・スミスが石井部隊幹部の尋問を着々と進めていたことが手に取るようにわかる。彼の調査は石井部隊本隊に近づいていた。1947年1月24日には、明治ビル835号室に内藤良一を召喚し、宣誓の下に尋問を行った。
 キャンプ・デトリックから送られて日本に来たマレー・サンダースの通訳をつとめ、その後サンダースから脅されて石井部隊に関する報告を一晩で書き上げた内藤である。神に誓っても「人体実験はしなかった」と宣言していたが、法務局の調査官の前でついに口を割った。
  尋問記録によると、内藤はまず石井部隊の防御的及び攻撃的細菌戦の目的を話した後、次のように供述したとある。
「石井は日本の教授たちの間ではたいへん有名な人物で、彼が人間を実験に使っているという噂は教授たちの誰もが聞いていることだったのです。・・・私はこの噂が本当だったと思います。開発されたワクチンの何種類かは、人体に病原菌やワクチンを接種し、その結果を見てからでないと成功したとはいえないものだったからなのです」
 さらに、内藤はハルピンから帰って来た人物から、実験には人間が使われていると聞いたと続けた。
「石井がハルピンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。東京でも捕虜を使わず同様の実験が可能だったはずです。もっと近代的な設備などを利用することによって、より正確な結果を得ることができたはずです。しかし、石井はハルピンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルピンでは何の妨害も無く捕虜を入手することが可能でした」・・・・・
 内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室のほか、石井に協力した大学として、京都帝国大学、東京帝国大学などの名前を挙げている。
 最後に付け加えることはないか、とスミス中尉に聞かれると、内藤はこう答えている。
「ありません。しかし、石井は人体実験をしたことで有罪であると思うし、彼は罰せられるべきと考えます」
 二ール・スミスは内藤の供述を聞きながら、さぞかし興奮したに違いない。尋問調書には彼はこう記している。
「内藤の供述は、石井がハルピンの研究所で細菌戦のために捕虜を使って実験したという第330号の数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は匿名でない情報源から得た初めての告発であると記すことができる」(266)
 勢い込むスミスのもとに参謀2部から連絡が入ったのは1947年4月はじめのことだった。参謀2部はそれまでの調査概要を提出するように命令していた。8ページに及ぶスミスの長文の報告書は、総司令部参謀本部の要請によって書かれたと明記されてある。
 スミスの報告書を受け取った参謀2部は、石井四郎及び防疫給水部に関する法務局の調査がここまで進んでいたことに驚いた。そのまま放置しておくと、法務局は間違いなく石井及び部隊員をBC級戦犯として起訴することになる。参謀2部のウィロビー部長は法務局宛てに文書を送って調査部第330号以下すべての調査を参謀2部の管理の下に置き、法務局による捜査を事実上、中止させた。(267)
●法務局の調査を中止させた理由
「この調査は、統合参謀本部(米国の最高軍事諮問機関)の直轄であり、参謀2部のコントロールの下に置かれる。すべての尋問、取り調べは参謀2部と共同で行われる。アメリカ合衆国の国益を保護し将来起ころうるあらゆる困惑から国家を守る為にも、最大限の機密保持が必要である。
 以下、要求事項。
 参謀2部の同意なしに訴追のための調査が継続され、あるいは調査内容を公表するような行動は許されない。これは最高司令官と陸軍