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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。


2、生体を利用した各実験
目的種類731部隊の生体実験の種類
細菌兵器の開発研究実験での殺人手段極限状態における人体の変化探索
1殺傷力の高い毒菌を選別し人体に注入して観察各銃弾の人体への貫通能力人間の真空における状態
2人体における病毒の毒性と感染力の増強実験各種毒物の人間に対する殺傷力人間のそれぞれ異なる気圧下における状況
3人体を用いたワクチンの効果実験人間を殺すために最も効果的な部位を検索人間の空腹に耐えられる時間の極限
4異なる国と人種の人間に対する細菌戦剤の感染性の観測縊死(いし)させる水分を与えず乾燥食料だけの生存時間
5感染者と健康者を同居させ感染の可能性を観測絞死させる水分だけを与えた生存時間
6細菌戦剤に抵抗力を持つ被験者の血液を全て抜き出し、治療用の抗血清を作製逆吊りにする熱風で乾燥させた後の体重
7細菌戦剤感染の最適なルートと用量(服用、或いは気道感染させるなど)煙を吸入させ殺す血液代用剤の効果観測
8人体内での新しい毒菌の実験(出血熱ウィルスなど)火炎で焼死させる凍傷研究
9観察用飛行機から投下した細菌弾の殺傷効果★感電熱湯によるやけどの研究
10被爆後、爆弾破片上の破傷風菌とガス壊疽菌の傷口からの侵入による致病状況 健康な人体を用いての各種外科手術の学習
11ペスト・ノミ(特殊容器に入れた)を空中投下し、容器が壊れた後の人間への侵入状況を観察 健康な人体を用いての難度の高い外科手術の学習
12  人工授精
13  梅毒の感染と治療
14  用量を超えたX線輻射
15  頭蓋骨切開後、脳の各部位の機能を研究
16  各種新薬の用量と中毒用量の研究
17  新たな伝染病の人体への影響観察
18  臓器移植
19  切断手術の実験
20  狂犬病の感染と観察
21  麻酔薬品の試用
22  各種の毒剤の用量実験
 注釈★印の付く実験は室外の射撃場にて  
731部隊が行った生体実験は約40種類。隊員たちは考え付いたすべての方法で各種実験を実施した。
    





 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)私が分からないままに、とある小丹陽鎮という所に行ったら、あわてた顔つきで集まってきた人を少し見かけたほかに、前線から退いてきた負傷兵に少なからず出会い、腕の取れた者あり、足の無い者ありで、息も絶え絶えに地に横たわっている者もいました。きのう日本軍がここにやって来てなにがしかの人を殺してから行ってしまったと言うことでした。私は長居が出来ずに、西の方へ6里余り行って、趙○崗という村まで来ました。路に面したある塀で囲まれた家の門に、お年寄りがいたので、私は水を飲ませてもらおうと近づいて行って、おしゃべりしたところ、そのお年寄りが詳しく私の来歴を訊ね、私の遭遇した不幸に痛く同情してくれて、すぐに自分の家に引き入れて泊まらせ、親切に構ってくれた上に、焦らないようにと私を慰め、何とかして長江を北へ渡って故郷へ帰って行ける機会を見つけるようにしようと、勧めてくれるのでした。老人は王会融という名で、心根の全く善良な人でした。私が故郷に帰るのを助けようと、毎日門にいて長江の北から来た人はいないかどうか尋ねていました。およそ半月くらいして、丁度好く4人の人が江北からこっそり渡ってきて丹陽鎮へ刻みタバコを売りに行くのにぶつかりました。老人は大喜びで、その人たちに大変親切に食事と宿とを提供し、詳しく江北の様子を訊ねてくれました。その人たちによると、日本軍は津浦線(天津から浦口までの鉄道)沿いに北の方へ明光駅まで進んで行っているが、その両側へはまだ広がっていない。長江も全く封鎖されているのではなく、自分らは岸辺の小舟に隠れていて、夜こっそり渡って来られたのだ、ということでした。こうして王会融お爺さんが私をこの4人の煙草売りに託して、私を江北へ連れて行ってもらえるようにしてくれたのです。私は合肥の方に回り道をして4,5日歩き、蚌埠に着いて、北へ行く夜行の難民列車に這い上がり、翌日の朝徐州に到着しました。降りてから大雪をものともせずに、百里足らずの道のりを急いで歩いて、その晩真夜中に家にたどり着きました。その時は父も母もまだ眠っていなくて、家にはまだ明かりが灯っていました。私が戸口から入るなり、父と母は私が帰ってきたというので、悲喜こもごも、途端に大声で泣き出しました。隣近所の人たちが吃驚し、みんなわが家にやって来てあれこれ聞いてくれ、みんな私が生きて帰って来られたというので望外の喜びに浸ったのでした。
 それにまた何と、私と一緒に虎口に陥った張正先が、2番目の窓から跳び出したの後、日本軍に撃ち殺されずに、その晩の内に江辺に戻り、木のたらいに乗っかって江北まで漂いつき、私より半月も先に家に帰り着いていたのでした。家に帰ってからの彼の判断では、私は窓から跳び出しけつまずいて倒れた後に撃ち殺されたのでした。彼がその様子を私の両親に話してからは、家の者達は私が南京で死んだに違いないと思って、身も世も無く泣き悲しんだのですが、私が帰ってくるようになってやっと落ち着いたのでした。
 今思い起こしますに、南京が陥落した時に私と一緒に難をこうむった131人の内で、私と張正先だけが九死に一生を得たのでした。張正先は故郷に帰ってからまた国民党の組織した抗日ゲリラに加わり、ある戦闘で陣没しました。生き残りは私1人だけになってしまったのです。
(張道遠が1987年に記録)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。


Imagine,


A world that instead 



of


preparing for war,



prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●ハルピンの元日本領事館もかつては「特別移送」任務を担当した。領事館の地下尋問室には囚人を吊り上げる滑車があった。

●方振玉、男、1922年生まれ。本籍はハルピン市平房区正黄旗屯。1941年~1944年3月まで731部隊で労働者となり、針金で縛られた被験者を隊員が列車から下ろしたのを目撃している。

●731部隊に移送された被験者は、「四方楼」中央部の「特別監獄」に監禁され、生体実験されるのを待つだけであった。「四方楼」の中央に「マルタ」小屋と名付けられた左右対称の監獄があり、右側は7棟、左側は8棟と呼ばれる。

●特別班班長 石井剛男・・・・石井四郎の2番目の兄、「特別監獄」を管理した。

●石橋直方氏の謝罪と悔恨の言葉:

 50年近い年月の間、胸に抱き続けていた謝罪と悔恨の思いを今日現すことができた。元隊員であることの身分を明らかにしての訪問はあまりにも心の重いことであったが、私は私なりに1つの区切りをつけたかった。合掌

 1987年6月15日
 元731部隊隊員
 石橋 直方
 66才


 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)撃つのが停まったので、又1人窓から跳び出し、懸命に北へ駆け出しました。日本軍が発見してまた発砲し北へ向けて射撃したのが、丁度私が窓から跳び出した時で、その銃声で分からなかったのかもしれず、又もや最初に撃ち殺された人の体の上に落ち、日本軍に見つかりませんでした。日本軍はひとしきり撃ったら、やめてしまいタバコを吸って話をしていました。私は死んだ人の体の上に腹ばいになり、この地は安全でないと感じたので、懸命に北の方へ駆け出し、一気に10何メートルか跳び逃げました。幸いにも束ねて立てかけたわらがうずたかくなっているのがあって、その後ろに隠れたので、日本軍がひとしきり撃ってきたのにも傷つけられずに、地に横たわって時機を待ち、外に生きる路を謀りもしました。その時、日本軍は引き続き火をつけて家を焼いていて、半時間くらいして、日本軍は集合して西の方へ去って行きました。日本軍が遠くへ行ってしまい、辺りにはもう何の物音もしなくなったのを待って、私は張正先を探しにまた戻って行きました。窓の下まで手探りで行ったら撃ち殺された人の脳味噌がもう流れ出していて、かたわらに張正先の帽子があり、もうきっと死んだに違いないと思ったら、涙が出てきて、帽子を頭にかぶせ、南の方へ去って行ったら、10何メートルか行ったところに、刺し殺された同胞達がうずたかくなっているのが見えて、見るに忍びないすさまじさでした。日本の侵略者が我が同胞を殺害した血なまぐさい罪悪行為を、私は永遠に忘れることが出来ません。
 虎口を脱した後、私はほのかな星明かりを頼りに、闇雲に東南の方向の小さな村落へと行ったところが、又もや狼の巣にはまり込みそうになり、もう少しで間違って日本軍の露営地に入ってしまうところでした。幸いにもあるお年寄りに教えられて、やっと危ないところから危険の無い状態へと変えられ、割りに安全な山里に入れました。夜が明けてから初めて、自分が頭から足まで全身血だらけなのと、その時まで1日2晩も飲まず食わずで、くたびれ果てているのとに気付きました。心優しい村人たちが私のこの恰好を見て、みんな進んで私にご飯を食べさせ水を飲ませてくれて、さっぱりした衣服に着替えさせてくれました(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



女性たちが



平和をつくる世界を。



Imagine,



A world where



women create peace.



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●王楽甫さんは、饒河県帯河村で旧ソ連のスパイ容疑で連行され、1941年8月9日に日本軍東安憲兵隊によってハルピンの731部隊に「特別移送」され殺害された。(《731部隊の動かぬ罪証》、P303)

●趙忠博、1943年2月に奉天憲兵隊によって瀋陽白塔保堡に監禁され、6月11日に「特別移送」される。

●王輝軒さん、1943年10月に天津にて大連憲兵隊に連行され、その後「特別移送」される。

●三尾氏はかつて4人の中国人をハルピン駅まで護送した。日本各地での「731部隊巡回展」の席上、彼は勇気を出し、1944年に王輝軒、王学年、瀋得龍、李忠善さんの4人を‘特別移送’したこと。移送前から、彼たちが731部隊に送られ生体実験されることも知っていたと証言した。「当時王輝軒さんは私の父と同じくらいの50歳前後で、善良な人だった。王学年さんは25才の青年だったが、彼の家に行って彼を連行した時、若い妻と幼い子供もいた・・・・」と当時のいきさつを話した。

●地方から「特別移送」されてきた被験者はまずハルピン駅に運ばれる。

●ハルピンに「特別移送」されてきた被験者は時にはハルピン市吉林街にある秘密連絡所「白樺寮」で一時監禁されるか、または専用鉄道で内密に731部隊に運ばれるか、あるいは専用の囚人護送車で直接731部隊に護送されていた。



 ●日本軍細菌戦部隊
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華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
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   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
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 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)この時がおよそ晩の7時過ぎ頃で、真っ暗になっており、中にいる者には何の物音も聞こえませんでした。続いて何度も引っ張り出すので、中の者が気をつけて外の方を見てはじめて、引っ張り出されて人が戸の外に出るなり日本軍の何人かが取り囲んで縄をかけ、南の方へ引っ張って行っていると分かり、銃声は聞こえませんでしたが、引っ張り出された人たちはみんな銃剣で刺し殺されたのでした。日本軍は人数が多く、引っ張るのは引っ張り、縛るのは縛り、刺すのは刺すで、すごい速さでした。この時の日本軍の殺しはみんな目が血走っていて、1人1人腕をまくりあげていました。引っ張り出された人たちは上着を脱がされて刺し殺されたのあり、着たまま刺し殺されたのありでした。7,80人ほど殺されに引っ張り出された頃に、家の中に残っていた者たちが反抗し始め、手を束ねて死を待つよりも、日本軍と命がけでやってやろうと立ち上がりました。ある者がレンガのかけらを日本軍にたたきつけ、大声でわめきながら外へ突き進んで行きました。日本軍の人数が多いので、戸口から外へ突進したのでは成功せず、日本軍は戸を閉め、窓から家の中へと発砲し掃射しました。日本軍が一発撃つなり、家の中の人たちはみんな東の切妻かべへと殺到し、人が人の上にかぶさって一緒に腹ばいになり、私と張正先とが一番奥だったので、一番下に押しつぶされる形となり、日本軍が発砲しても傷つきませんでした。日本軍はひとしきり撃ちまくってから、火をつけたわらの束を家の中に投げ込み、家を火で焼きました。火の光で地面に血が既に河のように流れ、深さ何寸かにもなっているのが見えました。火を放った時に、梁の上に這い上がっていたのがいるのを日本軍が見つけて、また発砲し射撃したので、梁の上の人が弾に当たって落っこちて来ました。日本軍が続けてわらを投げ込んだので、家の中は酷い煙が立ち込め、周りの窓からは猛烈に煙が吹き出し、窓の下に歩哨に立っていた日本軍も煙を避けて家の端っこに行っていました。私と張正先とは中でむせって、もう息が出来なくなりそうだったので、小声で外へ逃れる方法を相談しました。丁度その時急に1人が腰掛けの壊れたのを1つさっとつかんで力任せに東北の隅の窓にたたきつけ、木で出来ていた窓がぶつけられて開いたので、すばやくその窓を打ちたたいた人が跳び出して行きました。その時日本軍は煙にいぶされるのを避けて、家屋の東の隅に行っていたので、窓から跳び出たのがいるのを聞きつけて、直ちに発砲し射撃して、跳び出して行った人は窓の下で撃ち殺されました。(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,



A world that gets rid



of military bases and
 


reclaims



the forests and the 



oceans.



森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●黒龍江省とう案館(資料館)と吉林省とう案館が一般公開した「特別移送」ファイルの中に、朱雲岫、李厚賓、王楽甫、趙中博、王輝軒などを含む200人以上の被験者として惨死した中国人の記録がある。

※『注』:朱雲岫、別名:朱煥臣、スパイコードネーム:青雲、男、1918年、遼寧省(りょうねいしょう)開原県千岡村生まれ。1940年に、密山県黄泥河子炭鉱にて旧ソ連スパイの万信によってスパイとなる。1941年5月3日に東安省東安街(今の黒龍省蜜山市)の長明路三義桟前にて逮捕され、1941年5月20日に東安憲兵隊に「特別移送」される。

●李厚賓さんは家では主な労働力だったが、「特別移送」された後に最も苦痛を味わったのは老いた母と多くの子どもを抱えながら収入がなかった妻の陶秀文さんであった。母は息子の帰りを待ち、嫁と孫と一緒に毎日泣いてばかりいた。父は生涯苦労し無口だったが、息子を失った悲しみでより無口になった。

※『注』:李厚賓(彬)、別名:敬原、男、1910年6月29日に安東省安東県九連城に生まれる。1937年5月に、旧ソ連のスパイの劉日宣の推薦によりスパイになる。その後4回もソ連に行き、仲間と共に6回情報を提供。1941年8月8日に、安東省虎林県(現在の黒龍江省虎林市)虎林街四道街で逮捕され、1941年8月に、「関憲高第868」号命令により、虎林憲兵隊に「特別移送」された。

●長男である兄李厚賓さんが連行された後の子供達の境遇を語ると、弟の李厚文さんは思わず涙を流す。李さんは「兄の4人の子のうち、長男の李剛以外は、みんな早死にした。中でも末っ子の娘は医者に見てもらう金も無く病死した」と話している。その子はジフテリアにかかり窒息死し、息を引き取るのを李厚文さんが見ていて、4番目の兄嫁に言われて亡骸を外に捨てたのだ。李厚文さんは今でもこのことを覚えている。




 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)私達が引き続き南へ行くと、もう1つの村の外れまで来たところで、日本軍が5,6人私達の方へ来るのがいて、銃剣で私達にその家のそばに立っていろと指図し、間もなくまた10何人か捕まえてきて、普通の服を着ているのもいれば、軍服を着ているのもいましたが、やがてまた4人捕まえてきました。この時既におよそ午後2時頃になっていましたが、日本軍何人かに連行されて私達10何人かは前の方の道路の方向へ歩きました。この道路は南京から当塗へ通じる道でした。道路に沿って東の方へ少し行くと、道の北に家屋が一棟あって、村にはつながってなく、そばにもほかに家はありませんでした。この家屋は部屋が四つで、手前には左右両側の部屋に入口が1つずつあり、、真ん中の部屋2つには入口はなくて窓があり、後ろ側には窓が4つあって、切妻かべには両側とも入口も窓もありませんでした。中は床がセメントで、鉄のベッドの壊れたのが2つと、四角い腰掛の壊れたのが幾つかあり、レンガの欠けたのも少しありました。日本軍は私達を家のそばで待たせました。間もなく日本軍が幾つかの道からこっちの方へ人々を連行してきて、人数がどんどん多くなり、日本軍も6,70人になりました。その時日本軍の日本刀をさげたのが1人ぺちゃくちゃ一度しゃべって、何と言ったのかも分かりませんでしたが、日本軍のその他のが捕まえてきた人たちに並ぶよう指図して、2列に立たせ、その間隔が2メートルあり、人数を数えさせると、全部で131人でした。数え終わると日本軍は身体検査を始めて物を引っ掻き回し、各自が持っていた金銭や品物をみんな捜し出し、捕まった兵士のゲートルまでもはずさせました。捜査し終わったら、もう夕方近くなっていましたが、日本軍は東の端の戸口に鍵を懸け、みんなを西の端の戸口から入れました。丁度よく私と張正先とは西の端で列の先頭にいて、1人が手前で1人が後ろ側でした。私達2人は家に入って東の端にへ行き、東北寄り隅っこの壁際にうずくまりましたが、全部が入り終わったら、家中がいっぱいになりました。それから日本軍は戸を閉めて、刀をさげたのがまたひとしきりしゃべると、日本軍は分散し、周りの窓の下に何人かずつ立ち、その他のは西の端の戸口の前に行き、戸を開けて1人1人外へ引っ張り出しました。(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



武器を使わせない世界を。



Imagine,



A world that doesn’t



let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

 731部隊は関東憲兵隊と共同で、関東憲兵隊が実験用の人間をとらえ、それを731部隊に提供した。1938年1月26日、関東憲兵隊は「特別移送」指令を出し、移送される者の基準(1943年3月12日に「関憲高120号」文書として再発布)を詳細に規定した。この罪悪行為を覆い隠すため、関東憲兵隊はこの行動を「特移扱い」(特別の移送扱い)と呼んだ。したがって「特移扱い」とは各地憲兵隊が被験者を生体実験の材料として731部隊に厳密に送り込むことなのだ。
 日本の投降直前、関東憲兵隊は撤退する前にこの件に関連するほとんどの記録を隠滅しようとしたが、時間不足のため処分しきれず、ごく一部の資料が残された。1999年、黒龍江省○案(資料)館は「特別移送」に関するファイルを66件一般公開し、さらに2001年、吉林省○案館も277件の「特別移送」ファイルを一般公開した。これら「特別移送」の記録から、当時移送された人々のほとんどは中国人だと分かる。その他、旧ソ連人、モンゴル人、朝鮮人などもいる。
 ○・・・漢字変換が出来なかった字(木へんに當)
 


 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 私の本籍は江蘇省の沛県魏廟郷張窪村です。1936年6月に、私は丁度21歳でしたが、家には兄弟が4人いて、生活は貧困でした。その頃国民党が徴兵していて、やむを得ず外に出て兵になるしかありませんでした。入営し、蚌埠でしばらく訓練を受け、すぐ南京へ行かされ、国民党中央軍官学校の教導総隊特務連に編入され兵となりました。1937年8月13日に日本軍が上海に侵攻してきて、私は淞○抗戦に参加しました。11月11日に上海が陥落したため、撤退して南京に戻り、南京防衛戦に加わりました。12月13日に、南京が陥落しました。
 国の都が陥り、国民党の守備軍は既にあちこちで潰走してばらばらになり、将校はどこに行ったか分かりませんでした。わたしは江辺で一晩徘徊し、とうとうたる流れを目の当たりにしましたが、背後では日本軍の砲火がまだ射撃をやめずにいました。私は綿入れの軍服を着ていて、泳げもしませんでしたから、長江を北へ渡っていくのも不可能でした。夜が明けるまで堪えたところに(つまり12月13日)日本軍が又もや更に多くの飛行機を繰り出し目茶苦茶に爆撃して来たので、江辺にはもはやいられず、外を探して隠れるしかありませんでした。南の方へ少し行ったところで、丁度よく一緒に入隊した張正先と出くわし、私がまだ軍服を着ているのを見て、すごく危険だから何とかして普通の服に着替えなければと言うので、近くにある小麦粉工場に行き着る物を何枚か見つけて着替え、すぐ西南の方向へ行きました。およそ9時頃かに、日本軍が南京に入って来て、砲声は既に止んでいましたが、時折まだ銃声は聞こえていました。更に前へ進んである村外れまで来ると、日本軍が2人銃剣をかざして私達に向かってくるのに出会い、何か言っても私達には分からずにいると、丁度その時軍服を着た国民党の士官が1人やって来たので、日本軍は私達2人をうっちゃって、その軍人の方へ向かって行き、1人が一突きでその軍人を刺し殺しました。その機に乗じて私達は村に駆け込んでしばらく隠れましたが、長く留まるわけにもいかず、村から出たところで日本軍に殺害された中国人が10何人かそこに横たわっているのを見かけましたが、その中に婦女が2人いて、年は既に6,70歳、下半身素っ裸にされ、陰部にロウソクが差し込まれていて、何とも残虐非道な、人間性の一かけらも無いものでした。(明日に続く) ○・・・漢字変換できない字(氵に戸?)




 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



おたがいに戦争しないと



約束した世界を。


Imagine,



A world that promises



not to fight wars



with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊と南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

3、731部隊の予備役

 細菌部隊の長期的な発展と大規模な細菌戦実施のため、731部隊は少年班隊員を育成するため教育部を設立。彼らは日本国内から少年班隊員を大量に募集し、それを731部隊の予備役とした。募集の対象は家が貧しく、成績が優秀な14才から16才の日本人少年であった。

   旧少年隊史

昭和17年4月 1日 少年見習技術員(軍属セとして満州国ハルピン市第731部隊へ入隊)
(1942年)4月15日 教育部少年隊(技術員養成所)所属
              教育部長 陸軍軍医中佐 園田
              少年隊長 陸軍軍医少佐 田部
            関東軍軍属傭人拝命 日給85銭
            内務班4箇班編成 総員108名
      10月6日 大連・旅順方面戦跡視察旅行
昭和18年 4月1日 2年次に進 初年次(2期生)入隊
(1943年)      (日給95銭となる)
       5月1日 約1月間普通学その他防疫給水学について、2年次合同教育を受ける
               教官 伊藤軍医大佐 秦衛生准尉
             部隊本部の各部へ配属
       6月     普通学は、昼間(週3日)から夜間に切り替えられる
       7月    松花江太陽島にて野営演習(1週間)
昭和19年 4月1日  3年次に進級 初年次(3期生)入隊
(1944年)        2期生 部隊本部各部へ配属
昭和20年 4月1日  少年見習技術員養成教育修了
(1945年)       関東軍軍属雇員拝命(月俸52円~38円)
             引き続いて部隊付属東郷青年学校4年編入
             初年次(4期生)入隊
       7月    通化へ疎開準備(ロ号あるいはセ号作戦)
             荷物発送 隊員派遣
       8月 9日 ソ連政府対日宣戦布告
             満州進入始まる
       8月13日 8月初旬より隊舎撤去作業継続のところ、若干の要員を残し
             夜間平房を出発する
       8月15日 終戦の詔勅下る
             徳恵駅で停車待機中終戦の命令を聞く
       8月18日 蘇家屯駅にて大屋班長以下17名下車
       8月    鉄・駅にて宇佐美4年次以下  下車
       8月21日 引揚本隊朝鮮釜山到着 荷揚げ開始
       8月24日 釜山港出発
             山口県萩、仙崎港、福岡県門司、博多港へ分散上陸。上陸後現地にて部隊
             解散(解散後、北海道・東北梯団、九州梯団、四国梯団に分かれて復員)

 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  中帰連

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  胡秀蘭(女、69歳)の証言

 1937年12月13日に、日本軍が南京を占領しましたが、その時私達は鉄心橋の私の実家へ逃げて行きました。1週間くらい、日本軍は村でいたるところを捜索し、夫の李福成を捕まえて行きました。夫は24歳で、一緒に捕まったのは13人でした。韓仏山の韓仏洞の後ろまで連行すると、日本軍は先ず13人に強いて自分で穴を掘らせ、それから一斉にひざまずかせ、機関銃で掃射しました。夫は弾が鼻をかすめたとたんに穴に倒れ込み、他の12人が続いて体の上に倒れこんできました。それから日本軍は銃剣で1つ1つ体を突き刺したので、夫は三太刀刺され、その時は全身血まみれでしたが、死にはしませんでした。日本軍が行ってしまいずっとたってから、穴から這い上がろうと頑張り、這い通しに這って這って翌日の朝になりやっと何とか這い上がったのですが、腿(もも)の骨が折れていて、歩けませんでした。隣村の徐さんと覚えているのですが、やはりこの13人の中の生き残りだった人が、穴を這い上がってから、自分の家まで懸命に這って行って、家に着くなり、夫の李福成が死なないで、まだ山の上にいると、人に告げたのです。それでやっと夫を捜して連れ戻せたのです。でも、徐さんという人は出血多量で、間もなく死んでしまいました。
 夫の李福成は、解放後は先ず軍事学院で調理師をし、それから南鋼に移り、隠退するまで働きました。1982年に中風を患って亡くなり、享年69歳でした。亡くなった時の体に日本軍が残した傷痕をまだ留めていました。(王有堂と巫光民と劉鎮西が記録)

           「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

3、731部隊の予備役

 細菌部隊の長期的な発展と大規模な細菌戦実施のため、731部隊は少年班隊員を育成するため教育部を設立。彼らは日本国内から少年班隊員を大量に募集し、それを731部隊の予備役とした。募集の対象は家が貧しく、成績が優秀な14才から16才の日本人少年であった。


   少年隊概要

●部隊名沿革
    440軍郵気付659部隊、731部隊、25202部隊
 〈別名〉 加茂部隊、石井部隊、防疫給水部、東郷部隊
●部隊長
  石井四郎  昭和11年~
  北野政次  昭和17年~
  石井四郎  昭和20年3月~
●教育部長(第5部長)
  園田     昭和17年4月~
  西       昭和18年1月~
●少年隊長   
  田部     昭和17年4月~
  阿部
  斉藤     昭和18年11月~
  薮本     昭和20年~
●教官      7人
●班長     14人
●一期生内務班別編成
   第1班  27名
   第2班  27名
   第3班  27名
   第4班  26名  
※(森村誠一著:続・『悪魔の飽食』を整理)

●731部隊は少年班隊員の教育訓練部を設立。教育訓練部は本部(一棟)の南側の大きな長方形の庭に設置され、東、南、西側に3つの出入り口があり、庭には衛兵所を置いていた。
●予備役育成のため、731部隊は日本国内から成績の優秀な少年達を大量に募集し、彼らは731部隊で理論から実践まで系統的に育成され、、731部隊の大がかりな生体実験場で充分な実践を行なった。少年隊員たちは卒業後、直接731部隊に直属し、各部門に配属され、各細菌兵器の実験と生産に従事した。
 このほか、大規模な細菌戦に備え、731部隊は細菌戦の実施要員を計画的に数多く育成していた。




 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  邵翰珍(女、65歳)の証言
 日本軍が1937年に南京を占領した時、私の家は馬群の青馬でした。父の邵錦晴と祖父の邵才潮と叔父の任発和とがみんな日本軍に銃殺されました。日本軍が私達の村に入って来て、いたるところで人を殺し火を放ち、人を見れば捕まえて殺しで、私達はあちこち逃げ隠れ、夜も家へ帰れませんでした。(楊大福と孫守栄が記録)


          「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。



Imagine,


A world that spends
 

money


not on armies,


but on people's lives.



アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

2、731部隊の編成

●731部隊部隊長:石井四郎
1932年に石井部隊(731部隊の前進)を創立。1942年7月に初任部隊長。軍事費乱用容疑で軍部に検挙され部隊長解任。1945年3月、部隊長に再任し、731部隊の崩壊と逃亡までに至る。
●第二任部隊長:北野政次
1894年に日本の兵庫県に生まれる。1920年に東京帝国大学医学部を卒業。1932年に石井四郎と共に軍医少佐として中国の東北に。1936年から1942年にかけて「満州医科大学」細菌研究室の教授、主任を担当。1942年7月には731部隊の第二任部隊長を引き継ぎ、1945年3月に石井四郎と交替。
●731部隊の高等官の大部分は日本の医学界から集められた医学専門家である。
●判任官は731部隊の文職であり、そのほとんどが731部隊では中堅的存在。
●731部隊の女子軍属たちは文職を担当し、軍籍を持っていた。
●石井四郎の兄、石井剛男:特別班班長を担当(特別監獄を管理した。)
●石井四郎の兄、石井三男:動物班班長
●731部隊は特殊部隊であったため、一切の活動は機密で、隊員の外出は変装が要求された。当時ハルピン駅の近くに白樺寮という建物があり、ここは731部隊隊員たちがハルピン市内に出るための連絡所であり、隊員たちは平房から車で白樺寮まで行き、そこで民間人を装い、車のナンバーも変えた。
●※日本関東軍は1940年に石井部隊4支隊の設立と分布に関する命令を出した。その内容は孫呉673支隊、牡丹江643支隊、林口162支隊、ハイラル543支隊及び大連319支隊衛生研究所を直属とすることが含まれている。設立に時期、駐屯の地点や定員数などは日本陸軍参謀本部に厳しく要求され、各支隊の定員は300人とされた。

※この『中国侵略日本軍731部隊』(日本語版)には、かなり間違った記述があるように思われます。ページの前後で、書かれていることに矛盾する点があったので、私が訂正を試みましたが、事実と違っていることもあるかも知れません。あしからず!!

●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

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  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  陸玉華(女、61歳)の証言
 1937年には、私の家は中山陵でした。家には8人いて、父の陸松林が62歳、母の陸朱氏が49歳で上の兄の陸同興と、兄嫁の尚美華とに、次兄の陸順宝、上の弟の陸順項、下の弟の陸少武と私でした。
 日本軍が南京を占領する前に、情勢が緊張してきたので、家族が分散して避難しました。私は上の兄と兄嫁とについて淮安県に避難しました。母は上の弟と下の弟とを連れて沈挙人巷の難民区に避難しました。父は家を離れ難くて、家に留まり留守番していました。
 日本軍が入ってきた時、中山稜からやって来て、父が家の入口にいたので、日本軍に捕まえられて行き銃殺されました。母は難民区にいて、父が殺されたと聞いたもので、すぐに父の死体を引き取って葬ろうと叔父と一緒に家に駆け戻って行きましたが、途中で日本兵に発見され、強かんされてしまい、母はこの事で神経の病気になり恨みを抱いて死んでいきました。2番目の兄と3番目の弟も日本軍に捕まっていって銃殺されました。日本兵が私の一家4人に死をもたらし、家中にむごい苦しみを引き起こしてくれたので、この恨みは永遠に忘れられません。その頃私の家みたいなのはまだ良い方で、生き残れた者もいたのですが、私のお隣の家の人たち6,7人は、みんな日本軍にガソリンで生きたまま焼き殺されたのですから、ほんとに残酷の極みです!(曹義富と陳小敏と呂郎坤が記録)

         「Imagine9」【合同出版】より




想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。



Imagine,



A peaceful world 



without war.




でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのかな


一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.







第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1、731部隊の編成

平房特別軍事区域にある731部隊の施設は完備し、人員が多く、本部機構、各実験室、特設監獄、専用飛行場、少年隊舎、隊員家族区と教育区、娯楽区などがあり、1941年には、総数3000人に達した。

 「731部隊」編成表(近藤昭ニ氏が作成・提供)
※表に出来ないので大よそを列記します。
●部隊長:石井四郎、北野政次、石井四郎
●総務部:川島清、村上隆、今津綱幹、中留金蔵、太田澄
    ・副官室 
    ・調査課(通訳班、印刷班、撮影班、兵要地誌班、調査班、図書                             室)   
    ・人事課
    ・庶務課(労務室、庶務室、食堂、売店、学校)
    ・企画課
    ・経理課
    ・管理課(建設班、工務班、動力班、電話班)
    ・軍需課
●第1部(基礎研究:田部井和、北川正隆、菊池斎)
    ・第1課(腸チフス)
    ・第2課(コレラ)
    ・第3課(生理・捕虜管理)  吉村寿人(吉村班、宮川班、栗秋班、在田班、石井班、蓬田班、志村班、特別班)
    ・第4課(赤痢)
    ・第5課(ペスト)
    ・第6課(病理)
    ・石川班(病理)
    ・第8課(病毒)
    ・第9課(水棲昆虫)
    ・第10課(血清)
      内海班(血清)

    ・小滝班(結核菌)
    ・第11課(結核)
    ・肥之藤班【脾脱疽(ひだっそ)】
    ・桶渡班
    ・降旗班(ペスト)
    ・金沢班
    ・太田班(脾脱疽)
    ・貴宝院班(天然痘)
●第2部(実践研究:早川正敏、太田澄、村上隆、碇常重)
    ・第1課(庶務、操縦班)
    ・第2課(技術班、気象班、無線班、運輸班)
    ・田中班(昆虫)
    ・篠田班(昆虫)
    ・八木沢班(植物菌)
    ・第5課(安達実験場)
●第3部(防疫給水:今瀬一夫、江口豊潔、増田知貞)
    ・庶務課
    ・第1課(検索)
    ・第2課(毒物検知)
    ・第3課(濾水班、給水班、運輸班、焼成班、工作班)
    ・濾水機(弾筒製造窯)
●第4部(細菌製造:川島清、太田澄)
    ・第1課(培養生産)
    ・第2課(ワクチン?脾脱疽)
    ・第3課(乾燥菌・ワクチン)
    ・第4課(ワクチン)
    ・有田班(腸チフスワクチン)
    ・植村班【ガス壊疽(えそ)・脾脱疽】
●教育部(園田太郎、西俊英)
    ・庶務課
    ・教育課
    ・衛生兵
    ・炊事班
    ・診療所
    ・訓練隊
    ・少年隊
●器材部(大谷章一、紫野金吾)
    ・庶務課
    ・第1課(薬品合成)・・・山口班(細菌弾)・堀口班(ガラス)

    ・第2課(購買補給)
    ・第3課(濾水機)
    ・第4課(倉庫)
    ・第5課(兵器保管)
    ・第6課(動物飼育)
●診療部(永三太郎)
    ・伝染病棟(南棟)
    ・診療室
    ・家族診療室
●憲兵部(乙津一彦、田坂千晴、酒井○○)
    ・保機隊

●牡丹江支隊(通称643)
●林口支隊(通称162)
●孫呉支隊(通称673)
●ハイラル支隊(通称543)
●大連支隊(通称319)

※日本軍の細菌兵器研究で中心となる731部隊は、機構が膨大で、人員が多く、編成人数は3000人。その下には研究と生産担当の8部、4支隊と大連衛生研究所がある。
※名前不詳の場合は○○とする。


●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  王志福(男、61歳)の証言

(昨日の続き)日本軍は人々の群から若くて力の強いのを引きずり出し、着ている物の衿(えり)を引き裂き、手を開かせ、1人1人調べて、許老五、王立順、王志○、施仁喜、張広洞、王老巴子と任小順子など、みんな職人でしたが、一斉に引っ張って行かれ、家でどんなに頼んでも聞かれませんでした!
 それから、日本軍はまた王志標、王志生、王志中、王立江、王志木、王志成、曹応宏、任志才、王立汛、王立景、王立桂、王志龍と私とに、鶏を持たせたり、鍋を担がせたりして、東の方へ行かせたのですが、私はやっと13歳で、日本軍が略奪してきた掛け布団と敷布団とを私の肩に乗っけたので、道々私は押しつぶされそうでふらふら汗をかき通しでした。
 向前に着いて、日本軍が休憩していた時、私が年が小さいと見て、放ち帰らせました。帰ってくる道で、ずっと遠くから陳家窯や徐崗頭や長林郷などの村々から真っ黒い煙がもくもく噴き上がり、家がたくさん焼き払われるのが見えました。私が陳家窯村の前のカササギの尻尾まで行ったら、道の脇に高く盛り上がっている田に、死体が何十とごろごろ転がっているのしか見えませんでした。
 私達は引っ張られて前を走っていて、日本軍は後ろで疑わしいと見たのを対象に機関銃で掃射し、この時だけで私達中国人4,50人が撃ち殺されたのです!
 私達の村の
 王志○、許老五、王立順、施仁喜、張広洞、王老巴子と任老順子がここで撃ち殺されたのでした。
 崗下村はその頃全く惨めでした。若い人たちの死体は、見分けのつかないほど崩れていましたし、生きている人は天に叫び地を打ちたたき、嘆き悲しみ慟哭(どうこく)してやみませんでした。王志標と王志生と王志中とは、捕まって行ったきり帰って来ず、便りも杳(よう)としてありませんでした。日本軍が村にやって来て、崗下は災禍に見舞われたのです!(甘家小学校の李家坤が記録)

※○は日本の漢字に見当たらない字
 
         「Imagine9」【合同出版】より



MESSAGE(メッセージ)



環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1,平房特別軍事区域

●特別軍事区域への管理を強めるため、平房警備当局は特別軍事区域から周囲1.5キロのすべての道路口に境界札を立てた。

●当時、旅客列車が、ここ特別軍事区域を通過する際、平房駅の前の駅から窓カーテンを下ろし、外をのぞくことを禁止していた。この規定を知らずに外をのぞけば、政治的容疑で直ちに逮捕され、警察署や憲兵隊に送り込まれていた。この状態が続いたので、人々はこの平房駅の前の駅から次の駅までの約60中国里の区間を「60里国境線」と呼んだ。

●平房特別軍事区域内の住民管理は非情に厳しく、満16歳の住民は必ず偽香坊警察署配布の「居住証明書」を所持しなければならない。

●規模が大きな731部隊における労働力問題を解決するため、2000人以上の中国人労働者が雇われ、それには地元労働者と外来労働者がおり、毎日が重労働。特に外来労働者の暮らしは非常に苦しかった。

●軍隊、警察、特務たちの厳しい検査があるので、労働者達が出入りする時は必ず「労務身分証明書」を所持しなくてはならず、持っていなければ殴るなどの暴行を加えられ、ひどい時は政治的容疑で憲兵隊や警察署に送られる。

●箱床・・・刑罰用道具の一つ。体をベルトで木板に縛りつけ、頭を仰向きに箱に入れ、受刑者の口に水を流し込む。この刑罰は労働者から「潅水(かんすい)の刑」と呼ばれた。

●衛兵所が5ヶ所あり、高さ5メートルで、上部は高電圧電線と鉄条網が張られた土塀によって5つの衛兵所がつながっていた。

●731部隊の設備は整い、宿舎、実習室、食堂、倉庫、浴場、講堂と練兵場があり、庭の外には「少年隊」訓練場、馬場、そして「東郷国民学校」、神社などがある。


●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  王志福(男、61歳)の証言

 それは民国26年冬月のことですが、どんよりと曇った日で、日本の飛行機が南京の上空でぐるぐる旋回している間中、ずっと「ブウーン」といった何とも怪しげで甲高い音を発し、やがて「ドカーン」と爆弾の炸裂した音が聞こえてきました。
 私達の村は崗下と言い、陽山のふもとに位し、その頃は人家が30戸で、ほとんどが田を耕して生業とし、職人も少しいました。日本兵が南京に攻め込んでくる前夜、職人達は南京に留まれず、次々に故郷へ戻って来ました。
 その頃は、どこも安寧ではあり得ませんでした。村の人は親戚や友達を頼って長江の向こうへ渡って行く者あり、栖霞寺に入って難民キャンプの住民となる者ありでしたが、そのほかにはと言えば、家を離れる気にもなれず、終日びくびくしていて、昼間は村外れに人を歩哨に立たせて情報を得、夜は陽山に上がって藪に隠れるのでした。
 はっきり覚えていますが、陰暦の冬月14日の日に、村のお婆さんが知らせに走って帰って来て、「日本軍が小崗子に来ちゃってるよ。焼いて、殺して、強かんして、略奪してと、何でもやってるよ。あんた達早く行きな!」と叫びました。日本軍が西から来ると言うので、私達東へ走ろうとしたところが、松山の囲みからも日本軍の一隊が行く手をさえぎってやって来たので、走るには及ばずとなり、みんな家で縮こまりました。
 日本軍が村に入って来て、村の端にも、村の中にも機関銃を据え付け、鶏はケッコケッコと追い立てられ、お酒の壷は粉々に叩き壊されて、私達みんな村の真ん中に引っ立てられ、日本軍がひとしきり銃を放ち、わらの堆に火を放つと、その日は丁度大風が吹いていて、火が東の端から西の端までなめて行って、家はすっかり焼けてしまうという状態で、誰が火を消しに行かれたでしょうか。(明日に続く)

 
         「Imagine9」【合同出版】より



はじめに


戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1,平房特別軍事区域

 平房特別軍事区域の敷地面積は120平方キロ、「軍事基地」と4本の防衛ラインからなる。4本の防衛ラインのうち、1本は空中防衛ラインで、残り3本が陸上防衛ラインである。空中防衛ラインは軍用と民用の航空系統に軍令を発し、日本軍機を含む全ての飛行機による無断の上空飛行を禁止し、違反した飛行機が現れれば、731部隊専属の飛行機が直ちに離陸してそれを阻止し、また地上にも高射砲が設置されている。陸上防衛ラインであるが、1本目は長方形で「四方楼(しほうろう)」を囲む土塀(どべい)のことであり、高さ2メートル、長さ5キロ、土塀の上には高電圧電線が張られ、塀の東側に2つ、南、西、北にはそれぞれ1つの出入り口があり、横にいずれも衛兵所がある。2本目は1539号命令に基づき「甲」号地区の外側に張られ、その内側の縁から731部隊の中心地までは2キロから5キロほどあり、ここは特別管理区域となっている。そして3本目は「乙」号地区に張られ、ここでは2階建て以上の建物建造を一切禁止している。この地区の外側には関係者以外立入り禁止の看板が立てられた。

●四方楼・・・4つの建物からなる漢字「口」字【森村誠一著:『続・悪魔の飽食』では、(カタカナの「ロ」の字形をした通称「ロ号棟」と呼ばれる部隊本部建物)とある】のもので、731部隊の細菌兵器の研究、実験及び生産用の中心であり、「四方楼」の中央部は被験者達を収容する2つの特別監獄。

●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  陳光秀(女、67歳)の証言

私は江寧の湯山鎮許巷村に生まれました。1937年の12月に、日本軍の先頭の部隊が私の住んでいた地の近くから街道沿いに南京へ進んで行きました。農暦の冬月8日に、父親の陳智松が家にいた時に、日本の通信兵が電線の回収をしていて、たまたま父が脱穀場にわらを運んで牛に食べさせようとして、日本軍に撃たれて死んでしまいました。冬月14日に、村に突然いっぱい日本兵が現れました。そのころ村にはみんなで200戸くらいの人家があったのですが、日本兵は村中から100人以上の若い人を、稲を打つ場所に集めて来て、全員に胸を大きく開かせ、銃剣で1人1人刺し殺しました。私の実の弟の陳光東もその中にいました。時大林というのが、日本兵が見て回った時に、まだ死んでいないと分かって、何度も突き刺されました。刺されるたびに、「お母さん!」と叫ぶのが聞こえてくるという、そんな悲惨な死に方でした。思い出すと、ほんとに心がうずきます!それから劉応志と時先の2人は、何度か刺されたのが、急所には達しなくて、後から家の人たちに救い出され、傷口を布で包帯し、しばらくして傷がよくなりました。湖山炭鉱の労働者の崔義財は、機転を利かせて、日本兵が刺しまくっていた時に、その流れに沿ってうまく死体の中に倒れ込み、幸い難を免れたのでした。この当時の生き残り3人も何年か前に世を去りました。
 日本兵は残忍さが習い性となって、焼き払い、殺害し、姦淫し、かすめ奪い、およそやらない悪事は無い状態でした。その頃村にいた艾さんの家の4兄弟が、艾紅来、艾根来、艾義生、艾仁義と4人とも日本兵に捕まって、麻袋を投げ棄てるかのように、生きながらにして殴り殺されたのです。それに何人かよその土地から日本兵に捕まえられてきてクーリーをさせられていた人たちも、後になって日本兵に銃剣で五臓六腑をみんなえぐり出されたのです。近隣の村里にいた方老ニと呼ばれていた人は、日本兵に刀で全く2つに斬られてしまい、半分は大場崗に捨てられ、一方は六畝口に放り投げられたのでした。それから劉さんとこの5番目のが、日本兵に門から突入して来るなり、刀で頭からぶった切られて、半身は門の外に、もう一方は門の内にということになりました。日本兵は殺人のほかに、婦女の強かんもし、蘇仁発の奥さんがその頃40過ぎくらいでしたが、日本兵に私の家のベッドに押さえつけられて強かんされましたし、蘇仁発の家には息子のために幼い時から育ててきた嫁がいて、やっと15,6だったのが、3,4人の日本兵に時魏官の家に引っ張って行かれて輪かんされ、局部が紅くはれ上がり、出血が止まらずに、歩くのも困難でした。
 日本軍が許巷村を血で染めた犯罪行為は、とても忘れられません。私の家は父親と弟が殺された他に、兄嫁が日本軍に見つからないよう、外の大山の上で子どもを産んだために、産後の肥立ちが悪く病気になって、間もなく死んでしまいましたし、母も夫や子どもが殺されたため、塞ぎこんで死にましたから、一家の内私達姉妹3人と甥が2人残っただけでした。(郭立言が記録)
 
         「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。



日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1938年6月、日本関東軍の第1539号命令に基づき、「石井部隊」は正式にハルピンから20キロ離れた平房地区に移転し、「満州第731部隊」と改称し、平房地区の120平方キロを特別軍事区域にした。中心地域の敷地面積は6.1平方キロ。この広い特別軍事区では、部隊の定員編成、敷地面積、そして細菌生産量などがいずれも最大限に拡大され、第二次世界大戦では世界最大規模の細菌の生体実験と生産基地になった。

●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  陳金和(女、76歳)の証言
 1937年の冬月11日に、私達の家族は母と兄と妹と私の4人でしたが、下関の五所村から逃げて山西路の小学校に避難しました。ある日、日本兵の一群が銃を水平にかざして学校に闖入して来て、その頃そこで難を逃れていた私達5、600(五・六百)人を、全部運動場に駆り立てて、男を一方に、女をもう一方に並ばせました。その時私の兄が日本兵に中国兵だと疑われたのですが、後で母が確かに息子だと確認して引き取ったので、釈放されました。そのほかの身元を確認して引き取れる年寄りのいない青年達は、日本軍が中国軍だったとみなして、全部車で引っ張って行きました。みんなで六,7台の車で、500人余りくらいが山西路の後ろの樹林子里の尼姑庵の近くまで引っ張って行かれて、機関銃で射殺され、傷ついてまだ死ななかった者は日本軍にまた銃剣で突っつき殺されました。明くる日私は水のある所へ菜っ葉を洗いに行って、樹林子の近く一面に難にあった人たちの死体が横たわっているのをこの目で見たのです。
 このほかに、その年の冬月のある日、私たち娘4人で一緒に浦口で飴を売るのと黒慈姑(くろぐわい)を煮るのとの商売をしていましたら、日本兵の何人かに見つかり、野獣のように跳びかかって来られて、私一人逃げたのですが、後で分かったことには、ほかの3人は日本軍に強かんされてしまったのでした。(陳平穏が口述により整理)


         「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。



「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構

背蔭河(はいいんが)の日本軍細菌工場(中馬城)には被験者となる多くの中国の抗日人士や捕虜が収容されていた。1933年の中秋節にはここで脱獄事件が起こり、王子揚さんをはじめ30数名の収容者が看守の不意をつき行動を始め、停電に乗じて10数人が脱獄に成功した。これらの脱獄者は近くの村民達に助けられ「中馬城」を離れた。これら脱獄者の一部はその後抗日戦争に参加している。この事件があってから、731部隊は平房地区に移された。

●付連挙、男、1918年生まれ。本籍は黒龍江省五常県背蔭河鎮富有村発屯。1933年の夏、付連挙さんは兄付連曾さんと共に脱獄者の足かせを叩き壊し、逃走に協力した。

 
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  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  黄碧如(女、82歳)の証言
 1937年には家は鳩子橋泥馬巷46号でした。民国26年の陰暦11月8日に、日本兵が南京に入ってきたのですが、私達はもう莫干路の難民区へ逃げこんでいました。難民区にかかっていたのはアメリカの国旗で、私は25歳でした。ある日の午前9時か10時に、陰陽営の角の近くで、中国の青年が100人か200人縄で一緒にくくられ、何列かに立たされて、それを日本兵が機関銃で掃射しているのを、この目で見ました。後で国際紅十字会の人がこの時遭難した人たちの屍を鼓楼の二条巷一帯に運んで埋めました。○という叔父で、その頃餃子やわら麦の店をやっていたのが、手にたこが出来ていて、頭も剃っていたために、日本兵に中国兵だと言われ、難民区から捕まえられて行き、やはり陰陽営の路上での大虐殺で死んだのですが、難に遭ったのはまだ30歳足らずの時でした。
(陳平穏が口述により整理)  ○は日本語に見当たらない漢字。

        「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構


 宮武 剛(編集)
『将軍の遺言ー遠藤三郎日記』より

昭和8年(1933年)の秋、遠藤は石井四郎軍医正の生体実験を視察する。場所はハルビンと吉林の中間、背蔭河という寒村であった。
 【11月16日(木) 快晴
「午前8時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実状を視察す。
第2班、毒ガス、毒液の試験、第1班、電気の試験等にわかれ各○○匪賊2(人)につき実験す。ホスゲンによる5分間のガス室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。青酸15ミリグラム注射のものは約20分間にて意識を失いたり。
 2万ボルト電流による電圧は数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し第2人目は5000ボルト電流による試験を数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分文の電流通過により焼死せしむ。
 午後1時半の列車にて帰京す。
 夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず」】
 ホスゲンは塩化カルボニウムの別称、染料やポリ炭酸エステルの合成等に適するが毒ガスにも使われる。青酸カリ(シアン化カリウム)は15ミリグラムがちょうど致死量とされる。
 感情を押し殺すように事務的な表現ー。しかし明け方うなされて起き上がり書き加えたのだろうか、末尾の「安眠し得ず」に遠藤の衝撃がうかがえる。
 遠藤は自著や毎日新聞記者によるインタビュー(昭和56年)などで、この実験の概要は証言している。実験場は醤油工場を改造した木造平屋でハルビン監獄の死刑囚を送り込んでいた。「東郷部隊」と呼ばれ、隊員は日本名を禁止され内地の家族との文通も偽名で関東軍司令部経由。実験場の壁には高圧電線を張りめぐらし、遠藤も感電を避けるため軍刀のつかに外とうを巻き、それで門の扉を押した。
 この部隊こそ「関東軍第731部隊」の前身だった。
 遠藤の上司、岡村寧次参謀副長も「下働きの大部分は石井の郷村(千葉県山武郡)から選抜してきた青年」で「一切の外出禁止」「モルモットの代わりに、どうせ去りゆくものとはいえ本物の人命を使用するのであるから効果の挙るのは当然」(岡村大将資料)と書き残す。
 遠藤は、石井を「精力的によく仕事をする男だった。時には暴走するが」と評した。健康体に食べ物を与え水を与えなかったり、その逆を試しているのを聞き、興味本位の研究なら中止させる、と石井に言い渡したともいう。
 8年暮れには、空路、雪を突いてー。
【12月8日(金) 降雪
 「(略)拉林着、石井及び伊達氏に迎えられ背蔭河の細菌試験所を視察す。600メートル平方の大兵営にして一見、要塞を見るが如く一同の努力の跡、歴然たり。20数万円の経費またやむを得ざりしか(略)」】


 

 
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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉鳳英(女、1986年に59歳)の証言

 私は幼い頃に両親が亡くなり、お婆さんが私と兄2人とを面倒見ながら暮らしを立てていて、家は南京市の柳葉街大膠巷でした。兄は2人ともわら麦を造ったりシャオピン(焼餅)を焼いたりする腕がありました。
 日本軍が南京に攻めてきたあの年には、私はもう10歳でした。私達一家4人で、上海路の難民区に引き移り避難しました。日本軍が入って来て何日かして、ある日の晩、日本兵が難民区に捜査にきて、もう眠っていた兄2人を捕まえて行きました。(上の兄は劉光栄で、21歳、下の兄は劉光華で、19歳でした)。2人の手にたこが出来ているから、兵隊だったというのです。一緒に住まっていた難民で9人が捕まって行きました。お婆さんがあきらめられずにぴったりと付いて行ったので、9人が大方巷の外に鉄柵のある家に閉じ込められたのを、見届けました。その日の夜、その辺りから機関銃の音が響いてきて、随分長い時間響いていました。明くる日お婆さんが捜しにその家に行ったら、中はもぬけの殻でした。3日目になって、閉じ込められた人がみんな近くの3つの大きな沼で殺されたとやっと分かりました。沼の辺に行ってみると、沼の中に死体がいっぱいうずたかくなっていて、沼の水が紅く染まっていました。春になる頃に、やっと慈善団体が屍を片付けに出ました。お婆さんは私を連れて見に行きましたが、もう兄2人の屍は見分けられませんでした。
 大虐殺の後、私とお婆さんとは家へ越して住まいました。ある日、柳葉街を歩いていると、真正面から酔っ払った日本軍が1人ゴム輪の人力車に乗っているのに出会いました。日本刀を抜いて斬りかかってきましたが、幸いに私がさっと身をかわしたので、難を逃れたのでした。兄が2人日本軍に殺されてからは、私とお婆さんの暮らしはとっても大変で、親戚の援助に頼ったり物乞いをしたりして過ごしました。16歳の時にお嫁に行ったのです。(許亜州が記録)
       「Imagine9」【合同出版】より




世界は、


9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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この世の地獄!!731部隊・南京大虐殺

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 昨日は失礼しました。僕のパソコンがインターネットに接続できなかったので(理由は分からない)更新できませんでした。
 ・韓国のノムヒョン前大統領が自殺しましたね!!どんなことをしていたかは僕にはよく分かりませんが、韓国では悪いことをしていたら、大統領経験者でもよく逮捕されるのは驚きです!!陰謀かどうかは分かりませんが?
 日本では、悪いとことしてもうやむやになる場合が特に多くありませんか?特に日本の政治家や皇室の偉い方は!!


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『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  中国東北に設立された秘密実験機構

「9.18事変」以後、日本侵略軍は中国東北に傀儡政権「満州国」を設立し、日本の中国での植民地支配を実施する「国の中の国」とした。この時期は日本の細菌研究も大規模な実験段階に入り、自由に使用できる実験材料ー健康な人間の体を大量に入手するため、彼らは中国東北に秘密の実験機構を設立し、陸軍軍医学校防疫研究室の研究に協力していた。1932年7月から8月にかけて、日本軍は黒龍江省の五常県背蔭河鎮(ごじょうけんはいいんがちん)にて「中馬城」と呼ばれる細菌工場を建て、また1933年8月にハルピン市南崗区の宣化街と文廟街の間に実質上の細菌研究所である「石井部隊」をつくり、表向きは「関東軍防疫給水部」とし、また「加茂部隊」、「東郷部隊」といった別称があったが、これが731部隊の前進である。

 ●関東軍副参謀長の遠藤三郎は普段から日記をつける習慣があった。1933年、石井四郎による細菌実験の成果を調べるため、遠藤三郎は自ら背蔭河の細菌実験工場に赴き、当時の実験過程と試験状況を日記に詳しく記述した。これら日記は戦後日本で発見された。

 宮武 剛(編集)
『将軍の遺言ー遠藤三郎日記』


 

 
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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

(昨日の続き)女工の1人が、いらない布切れを4枚手にしてはばかりに行ったところ、この男に調べられ日本刀で首を斬り落とされました。金という少年工が、ほんのちょっとこいつの靴を借りてはいただけで、電信柱に縛り付けられ滅多打ちされた上に犬を放たれ噛み殺されました。それに一度、こいつは中国人労働者の1人が自分のシャツを盗んだと言い立てて、その人を電信柱にくくり付け、日本人何人かでその人を標的に石を投げつけて、生きたまま石で撃ち殺し、犬に食わせたのです。これを見て私は、工場では仕事していけなくなり、工場の門のところで私の前からの本業である靴直しをやりました。ある日、8月頃かに、靴を直してもらいにやってきた日本軍の通訳(中国人だった)がたまたま私に、工場内の大きな穴に埋めた中国人には、「楊伯達」に殺害されたのがたくさんいる、と言ったのを聞きました。新たな仇への怒りと前からの恨みとが一気に胸に湧き上がり、自ずと大きな穴へ痛ましく死んだ人のことが想われ、自分の命も今にも失われようとしていることが思われ、「楊伯達」にやられた被服工場労働者の何人かの死に際のすさまじさが目に浮かび・・・して、この殺人をものともしない悪魔を亡き者にして、災難にも死んでいった同胞達の仇を討とう、と私は決心しました。じっとひそかに観察していて、こいつは毎日午後に工場内のあの大きなため池で行水するんだと分かりました。私は自分では泳げないもので、水に強い友達2人(あだ名で「大きい和尚」「小さい和尚」と呼んでいる2人とも私の相弟子)に頼んで手を下してもらい、「楊伯達」を水につけて窒息死させ、縄で石を体に縛り付けて、池の底に沈めてやりました。うまくやってから私達3人とも南京から逃げ出しました。3人別々になってから、私は徐州へ行って靴直しをやり、それから妻と息子を徐州に迎えました。
 その後また将軍の遺言済南へ行って生計の道を図りました。1949年に解放されてから、私達一家はやっと南京に帰ってきました。私は3521工場に入って仕事しました。1976年に隠退し、今はこの市の四条巷康楽村3楼24号に住んでいます。(許亜州が記録)


       「Imagine9」【合同出版】より




世界は、


9条をえらび始めた。



・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)

・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


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  細菌戦の企画

陸軍本部の支持の下に、石井四郎の細菌戦構想の実施として陸軍軍医学校に「防疫研究室」が設置された。この研究室には、京都と東京の帝国大学から一部の医学専門家が集まり、ここは日本の細菌戦研究の核心的機構となった。

 石井四郎

 1892年6月25日に日本千葉県山武郡千代田村に生まれ、1921年に京都帝国大学を卒業後に服役。入隊当時の階級は少尉。
 1922年の夏、東京第一陸軍病院に転勤。
 1924年に京都帝国大学にて細菌研究を命じられる。
 1928年~1930年の2年間、ヨーロッパの20以上の国を訪れ、細菌兵器の研究資料を大量に収集。帰国後細菌戦の必要性を極力強調し、細菌兵器は、製造ではコストと資源を節約できる上に想像に絶する威力を持ち、その実施は経済危機と鋼鉄不足に直面している日本にとっては一石二鳥だと主張した。これは当時の陸軍大臣荒木貞夫をはじめ多くの軍部要員から評価され、その後細菌戦の研究計画が実施された。
 1932年8月、日本陸軍軍医学校にて石井四郎を始めとする防疫研究室が設立され、同時に7月から8月にかけて中国黒龍江省の五常県蔭河鎮にて細菌実験工場が建てられた。また、1933年8月にはハルビン市の宣化街と文廟町周辺にて石井細菌研究所(石井部隊)を発足させ、裏では「加茂部隊」と称し、石井四郎がその所長を務めた。
 1935年に平房地域で、より大きな規模の細菌戦研究を行なう実験基地が建てられ、これが731部隊である。石井四郎は12年にわたって細菌兵器の研究と生体実験を行ない、数多くの細菌戦を指揮した。第二次世界大戦終了後、石井四郎は日本に逃げ戻り、戦犯免責となるため、大量の細菌研究史料をすべて米軍に提出し、それ以後はずっと東京新宿区若松町に隠居。1959年10月9日に咽頭ガンで死去する。

 ●永田鉄山
 元日本陸軍省軍務局長の永田鉄山は石井四郎の細菌研究計画を終始賞賛し支持した。石井四郎にとっては頼りうる上司の1人。永田鉄山はかつて細菌兵器の情報収集のため石井四郎をヨーロッパに派遣し、のち石井四郎の細菌戦計画を日本軍部に推薦した。

 ●1932年、日本陸軍の上層人物の支持により、日本陸軍軍医学校にて石井四郎を始めとする防疫研究室が設立され細菌戦研究が始まった。日本軍部は絶えず命令を下し、研究室も絶えず拡大し、名称も「防疫研究所」に変わり、実際には日本軍による細菌戦実施での初期の研究センターとなった。


 ●腸チフス、赤痢、ペスト、コレラなど諸細菌を大量生産するため、防疫研究室には培養基が用意された。


   516部隊

   731部隊

  
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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

(昨日の続き)死者はほとんど全部首を斬られていて、体を斬られたのも少しありました。日本軍は私たちの一群を4組に分けて、大きな穴の四隅に立たせ、殺人競争をやりました。日本軍のある者は刀で首を斬り落とし、ある者は首を受け取って数字を付けました。妊婦が1人、一太刀で胎児をほじくり出され、へその緒が長く長く引きずられました。なんと酷いんでしょう!何十人もを殺したのを私は目撃しました。私の前の1人を殺す番になって、死体が私の体に倒れてきたので、その機に乗じて私も倒れました。それからまた死体が幾つか私の体の上に倒れて来て、私の上にすっぽりかぶさりました。最後に、日本軍が銃剣でまだ息の絶えていない人に追撃をかけ、闇雲に一突きして回ったので、私も体を何箇所か刺されました、左ももに三太刀、長さ一寸くらいと、背の左上に、長さ一寸余りほどで、この4箇所に、今でも傷痕が残っています。そのほか、頭の皮膚にも軽い傷が1箇所あります。暗くなって、日本軍が行ってしまってから、私の友達の車学財と車学富との2人(2人とも従兄弟)が、ふたのある下水溝の1本を虐殺現場まではって来て、まだ生きている人を尋ね探してくれました。2人がある死体の堆の下に身動きしている人がいるのを見つけて、死体をかき分け、私を引っ張り出し、顔の血痕を擦り落として初めて、それが私だと分かったのでした。2人は私を救い出し、校門のところのお隣のお婆さんの家に寝かせてくれました。そのお婆さんが水で傷口を洗ってくれて、とても長い時間かかってやっと治ったのでした。
 日本軍が南京を進撃して以来、私は妻子との連絡を失ってしまいました。私が傷を負ってからも、消息を知らせられませんでした。翌年の7,8月になって、偽の傀儡政権が山西路に救済委員会の病院を1つ作って、負傷した者を無料で治療したので、私も傷の治療に行きました。傷はまだ完全には好くなりませんでしたが、口過ぎのために、私が九死に一生を得た被服廠のところで手伝いをしました。その頃日本人が中国人労働者を募集してそこで廃墟を片付けさせていましたが、それからはその工場も日本人の軍用被服廠になり、名称も「田中友(音訳)部隊」と呼ばれました。工場には日本人の職長「楊伯達」(音訳)がいて、この上ない残虐さでした。(明日の続く)


       「Imagine9」【合同出版】より




世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!
●頭のいい人も「お国のため」と言われながら、不本意なことをしなければならなかったのか?それとも自分自身で何とか合理化して積極的にやったのか?それとも、初めから強い国をつくる為には、良心の呵責も無く、積極的に推進したのか?731の実験は本当に非情・冷酷なものである。



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  細菌戦の企画

陸軍本部の支持の下に、石井四郎の細菌戦構想の実施として陸軍軍医学校に「防疫研究室」が設置された。この研究室には、京都と東京の帝国大学から一部の医学専門家が集まり、ここは日本の細菌戦研究の核心的機構となった。

 防疫研究室及び石井の731部隊に関係する医学者

永田鉄山・・・陸軍軍務局長。細菌戦の構想を立てることに尽力し、かつては世界各国の細菌戦の準備状況視察のため、石井四郎をヨーロッパに派遣。「濾水器(ろすいき)汚職事件」で石井四郎を助けたことから石井に「一生の恩人」と呼ばれる。

小泉親彦・・・陸軍省医務局長。かつて厚生大臣をつとめ、石井四郎の毒ガス戦と細菌戦の防疫研究作業を積極的に支持した。日本敗戦後に自害。

石井四郎・・・731部隊部隊長。細菌戦構想を打ち出し、陸軍軍医学校に防疫研究室を設立。その母校である京都帝国大学の医学部から多くの医学者を731部隊に集めて細菌研究を行なわせる。

北野政次・・・731部隊第二代部隊長。東京帝国大学医学部を卒業。戦後「緑十字会」を企画しこれに参加。第一期の南極特別委員会の委員であり、「文部省百日咳研究会」にも参加している。

内藤良一・・・石井四郎が731部隊の部隊長であった期間に陸軍軍医学校での研究作業を仕切る。戦後「緑十字会」を設立。

金子順一・・・東京帝国大学を卒業、陸軍軍医学校の防疫作業室の中堅的人物。731部隊と陸軍軍医学校の間を頻繁に行き来していた。戦後は国立予防衛生研究所に勤務。

増田知貞・・・元は陸軍軍医学校にいたが、やがて731部隊支部隊長を担当し、石井四郎から「右腕」と称される。戦後は千葉県にて自営業を始め、まもなく事故死。

田宮猛雄・・・東京帝国大学伝染病研究所の所長。かつて陸軍軍医学校で兼職し、自分の生徒を万満州に派遣した。戦後は日本医師会会長、日本公衆衛生協会会長、国立癌センターの初代総長代理とつとめる。日本医学会の大御所。

宮川米次・・・東京帝国大学伝染病研究所所長と同仁会会長をつとめ、かつては北野政次など多くの生徒を731部隊に送り込んでいる。同時に南京の1644部隊と細菌学の共同研究も行なった。戦後は防疫研究所新潟分所につとめ、のち東芝生物化学研究所の初代所長代理を担当した。

戸田正三・・・京都帝国大学教授。かつては陸軍軍医学校防疫研究所で兼職し、731部隊の医学専門家機構の創設に尽力。戦後は第一期から第三期の学術会議会員、第一期南極特別委員会委員と金沢大学の学長など職につく。

清野謙次・・・京都帝国大学教授。石井四郎の指導教官として彼に大きな影響を与えた。

木村廉・・・京都帝国大学教授で石井四郎の師。かつて陸軍軍医学校防疫研究室で兼職。自分の生徒を731部隊に積極的に送り込んだ。戦後は第一期から第四期の学術会議会員、また日本医学会副会長、名古屋市立医科大学の学長をつとめた。

正路倫之助・・・京都帝国大学教授。かつては若い医学者たちを積極的に731部隊に送り込んでいた。戦後は第一期の学術会議会員。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

 私は唐順山といい、男で、1906年に生まれました。本籍地は江蘇省の六合です。小さい時から六合の東門外姚頭荘のお婆さん(母方の祖母)の家で牛を飼っていました。15歳の年に、南京の評事街にある「達源順」革靴店の見習いになり、修行が終わってからもこの店でずっと1937年の末まで働いていました。28歳の年に結婚して一家を構えました。妻は息子を連れて六合の東門外の呉家窯村に住んでいて、私は城内の靴屋に住んでいました。
 日本軍が南京を攻めてきたとき、私は三牌楼の校門のところに身を避けて、友達の車学財の家に泊まりました。彼は年が私と同じくらいなのです。日本軍が攻め込んできた何日かは、銃声が絶えませんでした。4日目の午後になって、外の状況を見に出かけたら、街ではいたるところに中国人の死体が見られるだけでしたが、日本軍の一隊が中国人何千人かを連行して下関の方へ行くのを見ました。と突然、私は日本軍がもう一群の中国人を連行して私のいる方へやってくるのを発見し、私ともう1人知らない人とで大急ぎで道端にあったゴミ箱の中にもぐりこみました。けれどもその人が恐くて全身震えが止まらずに、箱をがたがたさせ、日本軍に気が付かれてしまいました。日本軍が日本刀を持って、一太刀でその人の首を斬りおとし、続いてその血のしたたる首をぶら下げ、私の方に真正面から撃ちかかって来て、私は顔中血だらけになりましたが、日本軍はまだ私に身振り手振りで、何とかかんとか日本語で言って来て、私は恐くて立ちすくんでしまいました。その時日本軍の通訳が1人走ってきて、私を起こし、その人の群の中に加えました。私はその群に行ってみて、その人たちが日本軍にこの近く一帯で捜査され捕まってきたのだと分かりました。男あり、女あり、年寄りあり若いのありで、私の仕事仲間も何人か(その姓名はもう覚えていません)中にいて、みんなで200人余りでした。日本軍はその群を連行して国民党軍の被服廠(今の3503工廠)に入れました。工場の門を入って何歩も歩かないで、右へ曲がってまた何百メートルか行くと、工事場や、倉庫や、臨時の仕事小屋が見え、中には誰一人おらず、路面はほとんど破壊されていて、家も爆破されていました。最後に、大きな池を通り、小さな丘を登って、掘ったばかりの大きな穴のそばまできたら、穴のかたわらに高く高く新しい土が積んでありました。穴の縁まで来て、たまげてしまったのには、穴の中に屍が1000くらいもあって、死人に死人が重なり、針金で縛られたのあり、縄で縛られたのありで、縛ってないのもありました(私たちの一群は縛っていない)。(明日に続く)

 
      「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂

『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  細菌戦の企画

20世紀の20年代の末、日本はかつてない経済危機に陥り、国内の矛盾から抜け出すため、日本当局は海外侵略に賭けた。田中義一をはじめとする日本内閣は「満蒙分離政策」という中国解体の国策を策定し、日本の軍部がこれに積極的に呼応した。国土が狭く、資源が乏しいという日本の実情から、多くの日本軍人が資源やエネルギーを節約できる新兵器の開発を考え始めた。当時は軍医少佐だった石井四郎が細菌学の軍事的使用と細菌戦計画の実施を主張したのである。「9・18事変」以後
、石井四郎は軍部の支持の下に、日本陸軍軍医学校内に「防疫研究室」を創立し、細菌戦計画を本格的に実施し始めた。1933年から、石井四郎は関東軍の中国東北占領という機を利用し、主な研究活動を日本から中国の東北に移し、731部隊をつくり、中国侵略戦争で細菌戦実施の準備に入った。

 ●1927年の6月から7月にかけて、当時の日本首相である田中義一は「東方会議」を開いた。会議では'積極的な’対中国政策が決定され、「満蒙」(中国の東北3省及びモンゴル地区)は日本に対して、国防及び国民の生存に重要な利害関係を持つとし、日本側の「満蒙」における「特殊利益」が損害を受ければ、日本は断固たる自衛政策をとり、それを守ることを決定した。

 ●1931年9月18日の夜の10時20分、日本関東軍は中国の瀋陽北部柳条湖付近の鉄道を爆破し、中国軍隊にその罪を着せ、瀋陽にいる中国軍隊駐屯地の本営を奇襲して瀋陽城を砲撃し、内外を揺るがす「9・18事変」を引き起こした。


   516部隊

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  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

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     「この事実を・・・・」

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1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  林秀珍(女、56歳)の証言
 1937年には、わが家は御史廊で、野菜作りを生業としていました。その年の冬、私は両親に付いて難民区に避難し、金陵大学(今の南京大学)に住まいました。
 1937年の冬、日本兵が入って来て間もなく、ある晴れた日に、突然日本兵が2,30人来て、難民区にいた中国人何百人かを大きな内庭に追い立て、男の青年をつかみ出し、3列にして、麻縄で縛り上げ、4,50人ずつ五台山の方へ、みんなで100人余り連れて行きました。その人たちは五台山まで連れて行かれみんな機銃掃射で殺されたのです。その時私は日本軍が難民を縛るのを見かけ、恐くてずうっと震えていました。
 日本兵はまだ誰か家に隠れていないかと、難民のすまっている所に捜しに来ては、箱を銃剣で突っつき開け、衣服を放り投げ、金目の物は全部持って行きました。その時私のお母さんが隅でご飯をこしらえていたのを、日本軍が銃剣で頭をたたいたり、足でけったりして、お母さんにお父さんを出させようとしましたが、お母さんはおどされて声が出ませんでした。そんな風に恐いのとやきもきしたのとで、明くる日、べっとり血を吐きました。
 私たちは難民区で年を越し、外が安定してから、やっと御史廊の家に帰りました。その時私はやっと9歳でした。ある時大人の人に付いて太平門外まで行って見かけたのですが、東側も西側も斜面になっている所で、紅卍字会の小さな旗を手に持った人たちが、日本軍に殺害された中国人の屍を、麻袋に積み重ねるようにうずたかく積み上げ、その上を土でたっぷりおおったので、遠くから見ると2つの小さな泥と土の家みたいで、2つの塊それぞれが20数立方メートルもあり、上にそれぞれ長さ5尺ほど、幅4,5寸くらいの木の札をさし、その上には墨で字が書いてありましたが、何と書いてあったか今はもう覚えていません。けれどもその場景は、私はっきり覚えています。本当にすさまじかったです。
 私たちが家に帰って間もなく、家の人について出てきて浮き橋まで来たら、屍が7つ麻縄で縛って河に漬けられているのを見ましたが、紅卍字会(こうまんじかい)が片付けた屍でした。こうした数々の血の負債1つ1つを、私たち永遠に忘れる事ができません。(劉銘慧が記録)

 
      「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語)より


  前言
第二次世界大戦期間中、日本の軍隊は大本営の命令に基づき、国際条約に背いて細菌戦と化学戦を実施し、大戦中に細菌戦と化学戦を実戦に用いた唯一の軍隊となった。中国を侵略した日本関東軍第731部隊(元‘満州第731部隊‘)は、細菌兵器の研究と細菌戦の実施を専門とした部隊である。
 第一次世界大戦以来、日本軍国主義者はコストが安く強い殺傷力をもつ兵器の研究を続けた。細菌兵器と化学兵器の使用を禁止したジュネーブ議定書が1925年国際的に締結されたにも拘らず、日本の大本営は軍医の石井四郎の主張を採用し、まずは日本陸軍軍医学校に「防疫研究室」を設置。1932年に石井四郎の研究活動を当時占領したばかりの中国の東北に移し、関東軍内に「防疫給水部」と称する防疫特務機関ー加茂部隊を設立した。1936年、天皇署名の軍令陸甲7号により、この加茂部隊を基にしてハルビン郊外の平房地区にて「関東軍防疫部」を発足した。そしてのち1940年には、この部隊を「関東軍防疫給水部」と改め、表向きには「満州第731部隊」と称した。(?)(秘匿名、満州第731部隊、正式名、関東軍防疫給水部本部では?)
 第731部隊は、日本軍が大規模な細菌戦の実験と実戦準備をするための基地であり、当時日本国内の医学会の著名な医学者を集め、当時の最も進んだ設備と条件を備え、組織的な化学犯罪を行なっていた。この基地では、人類文明を壊滅させる威力をもつ恐ろしい各種細菌が培養され、人間に対する生体実験を行なうという恐ろしい多くの研究を行なっていた。1939年から1945年にかけて、平房地区一ヶ所だけで少なくとも3000人の中国と他国の戦争捕虜及び諸理由で連行された人々が細菌実験の犠牲者として無残に殺され、さらにこの基地から出発した日本軍人は中国各地にて細菌戦を行ない、多くの罪無き命を奪った。中国では、細菌戦が実施されたすべての地方で731部隊隊員の痕跡を見つける事ができる。中国の戦争記録には、中国侵略の日本軍は中国の20幾つのの省と市で細菌戦を行なっていたとある。攻撃、退却、あるいは掃討中に用いられた細菌兵器は、いずれも中国の多くの地方で人々に大きな傷害を与えている。1945年8月、日本軍の投降直前に、第731部隊は実験用の囚人を全員殺害し、全ての施設を破壊し証拠を隠滅した後、ここでの真実を絶対に外部に漏らさないという命令を受け、日本国内に逃げ帰り解散したのである。
 日本は、第二次世界大戦で細菌戦を実戦に用いた唯一の国であり、数千人の生きた人間を実験材料とした国である。したがって日本は、細菌戦では最も強く、そのレベルも最も最高の国である。戦争終結後、世界各国の平和を愛する人々は戦争の歴史を見つめなおし、戦争の教訓を考える時、誰もが日本軍のこの残忍非道な暴行に怒りを覚えた。
 今日、人類社会は長い歴史を経て高度な文明に向かっている。しかし、我々は今日の繁栄した人類社会構築ために払われた大きな代償、そして歴史上、人類文明が踏みにじられたあの一幕を忘れてはならない。今なお、あの歴史的事実を否定する者がいるし、あの苦痛の時代への認識fが薄くなりつつある人もいる。文明と進歩、平和と発展は世界の人々が求める前途であり、このために努めていく目標でもある。ここに展示された血の滴る写真とその被害者たちの声無き叫びが、文明と野蛮、平和と戦争に対する人々の正しい選択の助けとなることを願っている。


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  ハイナンネット
 
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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
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 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉金様(男、64歳)の証言

 1937年12月の末(民国26年の冬)は、私は16歳で、とても寒く、綿入れの服を着ていて、家は踹布坊5号でした。日本軍が入ってきてから、一家6人で難民区へ逃げて行き、上海路東瓜市のある洋館に入りました。私と父、母、兄、兄嫁、それに1歳にならない姪でしたが、2日したら、母と兄嫁と姪とは金陵女子大学に移って行きました。2日目に日本軍が道路づたいに何十人か捕まえ、縄で縛りましたが、家(難民区での)にも日本兵が数人跳び込んで来て、私と兄をも縄で捕まえて行きました。あれは午前中だったと覚えているのですが、日本軍が道沿いに3,40人ほど捕まえ、古霊庵の竹林の中(今の西康路)まで引っ張って行って、ある山の斜面に留めました。それから日本兵が10何人か上ってきて先ず銃床で捕まえられてきた人を殴りましたが、その中の1人で、顔にいっぱい髭を生やしている、小隊長らしいのが、捕まってきた人を個々に細かく訊問し、1人1人手と脚を調べました。言葉が分からず、手や脚を伸ばして見せるしかなくて、私と兄とは、ユートィアオ(油条=細長い揚げパン)を揚げるのを仕事にしていると説明しましたが、やがて日本軍は捕まえてきた人を2つに分けて、一方を斜面の上に、一方を下にしました。斜面の上に立ったのが20人余りで、下のほうに立ったのが15,6人でした。それから、斜面の下に立った人たちの縄をほどき、坂のもっと下に追い立て、何分か行ってから、手榴弾が爆発する音が聞こえました。こうやって、その15,6人はみんな殺害されたのです。私たちはたまげてしまいましたが、幸いに九死に一生を得、逃げ帰って来てからはあの洋館には住まえず、難民区の近くにちっぽけな小屋を組んで住まったところ、すぐそばに防空壕が1つありました。防空壕の中に住まっている一家は、元々は大中橋に住んで、大きいコンロでお湯を沸かす商売をしていた人で、名前ははっきり覚えていませんが、日本軍が発見して、その一家をみんな防空壕で殺してしまいました。その所にも住めなくなり、やがてまた難民区に逃げ込んで行き、私は捕まって人夫にさせられ、紅い腕章をもらって、物を担いだり雑用をしたりしていて、情勢が静まってから、私たち家の者みんな旧の住まいに戻りました。(王瑞屏と魏福仲g記録)



      「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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元日本兵の証言

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

  元日本兵の証言

2003年11月17日、東京高等裁判所の法廷に、近藤一(はじめ)さんという83歳になった元日本兵が立って、日中戦争の時に自分が日本軍の兵士として中国の民衆にくわえた残虐行為の事実を証言しました。その裁判は、日本軍が山西省(さんせいしょう)の北部の抗日根拠地に対して三光作戦を実施した時に日本軍のために性暴力の被害を受けた中国人女性たちが、日本政府が事実を認めて誠実に謝罪を行ない、必要な補償をすることを求めて起こしたものでした。次に紹介するのは、その時の近藤さんの証言の一部です。


 私たちは教育によって、中国人は人間以下の人種だと教え込まれ、中国人を殺そうが豚や鶏を殺すのと同じで別に罪にもならないし、殺すことは天皇のため、日本の国のためになると思っていました。1941年9月ごろ、山西省北部の抗日根拠地に掃討作戦に行きました。八路(はちろ)軍がいるという情報が入ると、その部落に進撃します。すると八路軍は逃げますから、逃げた後の部落に入って、金や物資、衣料などを略奪し、隠れている女性を探して、何人かの兵隊で輪かんしてしまうのです。強かんや輪かんのあとは殺すのが通例でした。
 1943年の春、山西省と河北省の間の山地に掃討作戦に行き、各部落の家を壊して農民が住めないようにして、広い区域を「無人区」にしました。壊した家のレンガをつかい、中国人の男子を使役(しえき)に使って、10数個のトーチカを建てましたが、工事が終わると中国人は必ず殺しました。
 私は、私を含めた日本軍兵士が中国で殺した罪の無いたくさんの人々のこと、強かんや輪かんをして殺したり、辱めたりした女性たちのことを思うと、夜も眠れない気持ちになります。私たちの犯した罪の重さや被害者の苦しみは消えることはありませんが、日本の国としての誠心誠意の償い(つぐない)があれば、少しは私たちの心の重みも楽になります。

 近藤さんは「命のかぎり戦争の事実を語っていきたい」と全国で証言活動をつづけています。



  近藤一さんの戦場体験

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  徐恵如(女、65歳)の証言
 1937年の冬は、わが家は西街でした。日本人が入ってきた2日目の朝、私たち戸の隙間からのぞいていたのですが、日本人が中国人をたくさん縄で一緒に縛ったのが、次から次へとわが家の門を通り過ぎて行き、一時間ほどかかって、みんな行ってしまってから、機関銃の音が響くのが聞こえました。その後、私たちは寧海路の陰陽営で池の水がみんな紅くなっているのを見かけました。この中国人たちは日本人に陰陽営に追い立てられて集団虐殺されたのだ、と一般市民がみんな言っていました。
 西街に近い珍巷里で、私たちと一緒に住んでいた一般市民20人余りも、みんな避難したのですが、やはり日本人が入ってきた日の午後、日本人2人が来て、私たちを全部部屋から追い出し、割りに顔つきのいい婦人を1人残して、その婦女を輪かんしたのです。
 私の夫の王徳富は皮細工人でした。ある日、夫が毘○寺で、ある日本人に出会い、その日本人が鞄(かばん)を縫わせたので、縫い終わってお金をもらおうとしたところ、日本人は銃剣を抜いて殺そうとしました。夫は吃驚して皮加工師の天秤すら放り出し、いち早く逃げ出しました。
 日本人が銃剣を投げつけて来ましたが、幸いに走る方が早くて刺されなかったのです。
 (景宝龍と高洪等が記録)  ○・・・日本語に無い漢字。

     「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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憲法9条

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

鳳儀萍(ほうぎひょう)-強制労働者の証言

 1944年8月、14歳の中学生になったばかりの鳳儀萍さんは、上海の四川路(しせんろ)を歩いていたところ、日本軍の見張りの兵隊に敬礼しなかったとしてつかまりました。そして、日本へ強制連行され、北海道栗山町角田炭鉱で強制労働に従事させられました。
 毎朝5時、日本人の現場監督に木刀(ぼくとう)や鞭(むち)でたたき起こされて、石炭掘りに行かされ、夜の10時まで働かされました。食べるものはごくわずかな米、たくあん、ジャガイモだけでした。
 1年もたたないうちに、彼と一緒に強制労働をさせられた290余名の中国人労働者のうち、90人が既に死亡していました。彼は幸い、九死に一生を得て日本の敗戦まで生き続けることができました。
 1945年11月、明優丸に乗って上海に帰りました。帰ってみると、母親が自分の行方不明を嘆き、心配するあまりに亡くなっていたことを知りました。
 1949年8月、鳳儀萍さんは国立江蘇(こうそ)医学院医学部に入学しました。その後、広州医学院泌尿器科の教授を務めました。(既に退職)。彼は、今でも角田炭鉱で死亡した強制労働者の名簿を保管しています。

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  王錦龍(男、65歳)の証言

 1937年に日本軍が南京に入ってくる前は、私の家は大紗帽巷25号でした。南京が陥落した時私たちは難民区に逃れ、陰陽営入りました。1937年12月下旬のある日の午前中、私が1人で上海路に行ったら、そこで日本軍が縄で40人余りを縛っているのが見えました。これを見て、私はびっくりし駆け戻って隠れたのですが、10分くらいしたら、機関銃の音がひとしきり聞こえました。40人余りが機関銃で撃ち殺されたのです。
 ある日の午後、やはり陰陽営の近くで、ある日本兵が銃剣で12歳の子どもを1人刺し殺すのを見かけました。
 わが家としばらく一緒に住まって避難したもう1軒の家に、17歳のお嬢さんがいました。ある日の午後、日本兵が2人闖入して来て、このお嬢さんを輪姦してしまいました。(姚彦花が記録)

  
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戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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日本軍「慰安婦」制度

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。

 日本軍「慰安婦」制度

 1931年末、日本海軍は、将兵(将校と兵士)の性の要求を解決するため、上海(しゃんはい)の日本風俗店を特別慰安所に指定しました。1932年3月、上海派遣軍副参謀長・岡村寧次(やすじ)らは、性病が将兵に広がることと、日本兵の強かん事件が多発し世論の非難を招くことを防ぐため、海軍のやり方をまねて慰安所の設置を決定しました。最初は日本国内から「慰安婦団」を招いて、将兵に性を提供するための場所を設置しました。これが日本軍「慰安婦」制度の始まりです。
 日本軍「慰安婦」制度は、「満州国」に広まり、日本の中国侵略戦争の拡大にともなって、中国各地に広げられていきました。1937年12月、南京で中国人女性に対する大規模な暴行事件が起こると、日本軍は華中(かちゅう)一帯に慰安所を設置するようになりました。
 「慰安婦」制度は、中国人女性への強かんや日本軍将兵が性病にかかるのを防ぐという名目で設置されましたが、実際には両方とも防ぐことはできませんでした。「慰安婦」にされたのは、主に朝鮮人女性や中国人女性でした。戦場とされた中国の場合は、女性が日本軍の作戦のなかで拉致されたり、仕事があるとだまされたり、抗戦中に捕虜となった女性が強制されたりして「慰安婦」にさせられました。日本の植民地だった朝鮮の女性の場合は、朝鮮国内で仕事があるとだまされて、遠い戦場へ連れて行かれた場合が多かったといいます。
 アジア太平洋戦争がはじまると、陸軍中央が慰安所の設置に乗り出し、フィリピン、インドネシアなどの東南アジア・太平洋地域で現地の女性を「慰安婦」にするなどして、慰安所を広げていきました。
 日本軍は慰安所の設置、管理、統制、「慰安婦」の募集、輸送に関与し、日本の外務省、内務省、朝鮮総督府、台湾総督府など日本の国家機関も「慰安婦」募集や移送に関りました。その意味で、「慰安婦」制度は、日本の軍・国家ぐるみの「女性に対する戦争犯罪」ということができます。
 慰安所の女性たちは外出の自由、身体の自由がなく、「慰安」をことわれば、殺されるかもしれない状況におかれました。人格をもった女性の性を戦争をつづけるための道具にしたのです。英語では「慰安婦」のことを「sexual slave」(性奴隷)という表現をします。「慰安婦」にされた女性たちは心身に深い傷を負(お)い、生涯にわたりトラウマに苦しんだのです。
 
 ■上海崇明島で生活していた朱巧妹は、戦争中に日本軍によって「慰安婦」にされ、耐え難い苦難を受けた。日本軍の暴行に憤慨した彼女の夫は、抗日ゲリラ隊に参加して、犠牲になった。彼女は、2005年2月、95歳で亡くなった。


 
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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  余揚金華(女、67歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領した後、冬月25日に、金陵女子大学で日本軍が身分証を発行した時、青壮年を一方に追い立て、間もなくトラックが3台来たのに一緒に乗っけて100人余りを、陰陽営まで連れて行きました。この人たちが引っ張られて少ししたら、機関銃の音がひとしきり聞こえましたから、全部銃殺されたのです。
 日本軍が入って来て4週間くらいしてからでしたか、一度、鼓楼医院の両側の横丁で、アメリカ人が中国人で動員された人たちを指図して、日本軍に殺害された中国人の屍を100余り防空壕まで引きずって埋めさせているのを、この眼で見ました。(秦景沢と陳玉蓮が記録)

 
    「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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強かん行為

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。

 強かん行為

 日本軍の兵士の多くが、中国の農村において、女性を発見すると強かんに走りました。日本軍は、部隊の戦闘力を高め、士気の低下を防ぐ事ができるとして、兵士たちが中国の女性に暴行を加えることを容認していました。しかし陸軍刑法では、強かんに対しては厳罰が規定されていました。そのため日本兵は、被害女性が憲兵に訴えることを恐れて、強かんした女性を殺害してしまうことが少なくありませんでした。
 1937年12月、日本軍の第18師団(牛島部隊)は、安徽省(あんきしょう)の蕪湖(ぶこ)に侵攻すると、現地の逃げ遅れた女性たちの多くを強かんしました。そして暴行を加えた女性を全員刺殺してしまいました。
 日本軍は60歳を超えた老女から10余歳の少女まで、区別することなく暴行を加えました。被害を受けた女性の身体は傷つき、子どもを産めない身体にされた人もいました。そして誰もが精神のトラウマ(後遺症)に苦しんだのです。

■第59師団第54旅団第110大隊伍長・富島健司の手記

 私は、1943年の暮れ、1ヶ月近く、渤海(ぼっかい)湾の沿岸地帯を荒らしまわったときのことを思い出しました。私は、男の人を見かければ、手当たりしだいに殴り、むごたらしい殺しかたをした。女の人を見つけたら「命だけは助けてやるから、俺の言うことを聞け」とわめきたて、辱めた(はずかしめた)。それでも哀願したり、拒もうものなら「この野郎、こんなに武士の情けをかけているのに、分からん奴だ」と、生きていけなくなるほど殴りつけ、銃剣で殺していったのだった。(中国帰還者連絡会編『新編 三光 第一集』光文社、より)


    

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1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
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  葛秀華(女、65歳)の証言
 
 中国侵略日本軍が1937年の冬月11日に南京を占領した時、わが家は陰陽営難民区西橋5号に引き移って住まいました。そこは家がかなり多く、難民がたくさん住まっていました。冬月の14日だったと私ははっきり覚えているのですが、その日午前8時か9時に、日本兵が西橋5号まで捜査に来て、家屋内に銃が5挺あったと分かった途端に、日本兵は家に住まっていた若い人たちほとんどを捕まえました。私の2番目の兄で25歳だった葛長華は、先に叫び声を聞きつけて、床下に隠れたのと、兄嫁が子どもを産んで床に寝ていたのとで、捕まらずに済みました。日本兵はみんなで300人余り捕まえて行き、その人たちを一緒に二条巷や西橋や陰陽営の近くの沼の水辺に追い立てました。18歳だった私は、もう結婚していて、沼の近くの寧海路58号にあった姑の家に住んでいたので、そのところで私を中2階に隠してくれました。中2階では外が見えるのですが、外からは中が見えないのです。午後3時か4時頃かに、とても曇った日でしたが、日本軍が機関銃を据え付け、捕まえてきた300人余りを機関銃で掃射し、その人たちが全部撃ち殺されたのを目撃しました。日本軍が死体を沼の中に押し入れたので、沼の水が真っ赤に染まりました。この時の虐殺で、前から石鼓路に住んでいた汪さんの家の伯父さんや叔父さんたち兄弟7人が同時にやられ、それに私の実家のお隣趙大泉さんの家の息子3人も殺されたのです。
 今また前のことを思い出すと、ほんとに憤慨に堪えません。日本の侵略軍は中国人民にとてつもない大罪を犯したのです!(秦景沢と陳玉蓮が記録)

  

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女性たちが


平和をつくる世界



ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。


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遺棄化学兵器の危害

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


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日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 遺棄(いき)化学兵器の危害

 1925年に調印されたジュネーブ議定書は、化学兵器や生物兵器(細菌兵器)の使用を禁止していました。そのため、731部隊は、敗戦直前に撤退する時に、捕虜を殺害、建物を破壊して証拠の隠滅をはかり、重要な資料と物資は日本に持ち帰りました。その時、病原菌を植えつけられたネズミや家畜が周辺に逃げ出したため、ハルビン近郊ではペストが流行し、1950年代初めになってようやく終息(しゅうそく)しました。
 日本軍が大量の化学兵器(毒ガス弾・毒ガス筒)を中国に遺棄して撤退したため、戦後になって、遺棄毒ガスによる死傷事件、絶えることなく発生しています。最近の数年間においても、日本軍が秘密裏に埋めた毒ガスが発見され、死傷者が出ています。化学兵器禁止条約に基づいて、日本と中国は1999年、「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を結び、日本政府の責任で、遺棄毒ガスの解体、処理の作業を始めました。

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉世尭(男、82歳)の証言

 1937年の冬月6日は、中国侵略日本軍が間もなく南京を占領しようとしていて、城内の住民は雑然とあちこち駆け回って難を逃れようとしていました。五台山の難民区の収容所に区分されて、本部が五台山の永慶寺に置かれた、という話でした。わが家はこの時五台山に1軒借りて先に住み着いていました。「中央軍」は南京を死守し、南京城と存亡を共にする、と言われていたのに、11月9日(農暦)になって彼らは闘わずに逃げてしまい、南京城内を混乱に陥れました。私の両親と初めの妻と子どもとは冬月6日の午後、雲南路の金陵大学農業専修科の2階へ駆け込んで住まいました。私の初めの妻は日本軍の南京占領で驚き脅えたことで、病気になり2年足らずで亡くなりました。この事が私には終生忘れられません。
 冬月8日に、難民収容所の本部から人が来て、沈という人と連携し、国際救済委員会の第35難民収容所が出来ました。沈というのが私と太平路の「美最時」革靴店の責任者とに共同で班長をやらせ、2人に現状を維持するよう責任を負わせました。冬月9日には、難民区の中は難民がとても多く、子女を抱え年寄りを支え泣くに泣けない有り様でした。2日目の晩になって、「中央軍」の兵士は銃器や弾薬を投げ棄て思い思いに逃げ出しました。35難民収容所には2000人余り難民がいて、押し合いへし合い、身の置き所も無いようでした。冬月11日の朝、日本大使館に日本の国旗が揚がったのを見て、難民たちはいっそう恐れ不安がりました。私は2階に住まっていたので、ずっとはっきり見えたのです。午前9時頃かに、突然日本兵が数人来て、収容所に闖入してくるや、いきなり発砲して1人を傷つけ、たちまち数十人捕まえて行って、それっきり帰って来ませんでしたから、きっと殺害されたのです。しかも、日本軍は毎日夜になると婦女をひったくりに来て、引っ張って行き強姦したのです。太平路や中華路一帯が日本軍に放火されて燃え、夜間に赤々とした焔(ほのお)が天を焦がしました。
 日本軍は殺し焼き犯し掠め(かすめ)、悪事の限りを尽くしたのです。
 冬月14日に、私は2階で見たのですが、日本軍は雲南路の角で道を通る中国人を捜査して捕まえ、午前10時過ぎまでに、数千人連れて行きました。お昼時分に機関銃の音が絶えず聞こえただけでした。この難民収容所の後ろに、沼が1つあって、2階で見たのですが、日本軍は湖南路から中国人をたくさん捕まえてきて、沼に向かって5人1列でひざまずかせ、それに発砲する度に、1列ずつ中国人が倒れていき、水際に倒れる者もあれば、沼の中に倒れる者もあるのでした。何日か後に、沼をさらって発見された屍がみんなで83ありました。
 一番初めは、日本軍は中国の同胞を数百名清涼山へ追い立て、そこの大きな防空壕に押し入れ、燃焼弾と機関銃とでその人たちをみんな殺してしまうという、全く残忍なひどいものでした。
 凶悪な大虐殺の後しばらくして、日本軍は南京に住んでいる者に良民証を持たせようとし、それが無ければ命に保証はないことにしました。冬月の末に、父と寧海路に行きましたら、良民証をもらう人がたくさんいました。その時、人の群の中に売国奴がいました。張栄光といって、江西の人だと言われていましたが、それが自動車の上に立って言うには、およそ壮丁や人夫に徴発された者と中国兵になった者で、そうだったと言う者は、皇軍は殺さずに、食べる者を与え、旅費を支給して家に帰らせるが、およそそうだと言わずに、調べられて判明した者は1人残らず銃殺される。売国奴のこの話を聞いて本当と信じ、立って出てきたのが数千人といました。間もなく、日本軍が車でこの人たちを運んで行ってから、いくらもしない内に、機関銃の音が聞こえました。この人たちも日本軍に集団虐殺されたのです。(何月英が記録)

 

   「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが


平和をつくる世界



戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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毒ガス戦と細菌戦

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 化学戦と細菌戦の実施

 廬溝橋(ろきょうこう)事件のすぐ後、日本は化学戦(毒ガス戦)部隊を編成して中国へ派遣しました。1937年7月28日、日本の参謀総長は、毒ガス使用許可の指示を出しました。以後、日本の各部隊では化学戦に従事する兵員を養成、訓練して、中国戦場で化学兵器を使用するようになります。
 中国の統計によれば、日本軍の化学兵器使用作戦数は2000回以上、死傷者は国民党軍兵士4万7000人、うち死者6000人、八路(はちろ)軍兵士が3万7000人、うち死者は1500人、民間人と捕虜の死傷者は1万余人に上ります。
 1939年、731部隊は、中国とモンゴル国境のノモンハンで起こしたソ連軍との戦闘(ノモンハン事件)において、初めて細菌兵器を使用しました。その後、日本は侵略戦争を拡大すると、関東軍、北支那・中支那・南支那の各方面および東南アジアの軍隊においても「防疫(ぼうえき)給水部」の名称で細菌戦部隊を創設しました。中国の浙江(せっこう)、湖南、山東、広東(かんとん)などにおいて細菌兵器を使用したため、多数の住民が被害を受けました。湖南省の常徳では、実名が判明した死者が7463人に達しました。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ



       「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  張秀琴(女、57歳)の証言

 1937年の冬、日本軍が南京を占領した時、私は金陵女子大学の難民区に避難していましたが、それは寧海路でした。日本軍が難民区から中国の男の青年をたくさん捕まえていくのを、私は窓から見たのですが、どこから捕まえて来たのかわからないのもいて、日本軍はその人たちを縄で縛り、数十人を数珠繋ぎにしたのを、前と後ろから日本兵が銃で押さえるようにして、女子大学の後ろの山の上まで引っ張って行った後、機関銃がひとしきり響き渡るのが聞こえただけでしたが、みんな撃ち殺されたのです。私たちは恐くて家の中に隠れているだけで外には出られませんでした。この人たちほんとに痛ましい死に方をしたんだなあ、と思います!(章厚之と申全英が記録)

 
  
 「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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731部隊

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 「特別移送」と人体実験

関東軍の憲兵隊は、逮捕した抗日運動の活動家やソ連のスパイ工作員をひそかに731部隊まで移送して、細菌実験の「材料」(マルタ〈丸太〉と呼んだ)にしました。これを当時「特別移送」と呼びました。1999年と2001年、黒竜江省(こくりゅうこうしょう)と吉林省(きつりんしょう)の公文書館で、関東軍憲兵隊が残していった「特別移送」の資料が発見されました。
 731部隊は、「特別移送」されてきた人たちを秘密の監獄に入れて、ペスト、チフス、パラチフス、コレラ、馬鼻疽(ばびそ)など数十種もの細菌実験に使いました。さらに凍傷(とうしょう)実験、人間の血と馬の血を交換する実験、人体を逆さづりにする実験などを行ない、生体解剖まで行ないました。化学戦部隊と共同で毒ガス実験も行ないました。元731部隊員の証言によれば、少なくとも3000人がここで犠牲になりました。


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  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  安翠雲(女、62歳)の証言

 日本軍が1937年の12月に南京を占領した時、私たちは家族全部で五台山の近くの金陵女子大学の中に避難していました。
 1937年の12月17日の午後、4時か5時頃に、日本兵がたくさん来て、難民収容所にいた中年と青年の男子を、1人1人検査し、およそ頭に帽子のたががある者と、手にたこのある者とは、みんな中国兵と見なされました。その日全部で20人余り引きずられ、斜め向かいの空き地まで連行され、機関銃で掃射され、いっぺんにみんな撃ち殺された後、日本兵は大手を振って立ち去りました。日本軍は縦に南京の同胞を虐殺し、中国人民に対してゆるすことの出来ない罪を犯したのです。※(蒋宝霞と劉維玉が記録)
 
 ※詳しくは「南京事件の日々(ミニー・ヴォートリンの日記)」【大月書店】の12月17日を見てください。

  
 「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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化学戦部隊と細菌戦部隊の成立

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!
 あまりにも冷酷・残虐な部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 化学戦部隊と細菌戦部隊の成立
 第一次世界大戦後、日本陸軍はひそかに化学兵器の開発を行ない、毒ガス製造工場を設立しました。日本は、中国への侵略戦争を始めると、化学戦部隊を中国の戦場へ派遣しました。関東軍は、ソ連に対する化学戦を準備するため、化学戦部隊、516部隊を満州のチチハルに創設しました。
 1932年、石井四郎(陸軍軍医、医学博士)は、東京の陸軍軍医学校で細菌戦の準備を始めました。1936年5月30日、日本は「軍令陸甲第7号」により、ハルビンの平房に「関東軍防疫給水部」の名前で細菌戦部隊を正式に創設し、石井四郎が初代の部隊長に就任しました。1941年からは「満州第731部隊」と改称し、ハイラル、牡丹江、林口、孫呉などに支隊を設立しました。


   516部隊

  516部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊

 731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。

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  大久野島(毒ガス島)


     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  周鳳英(女、70歳)の証言

 1937年の冬月、私たち一家は二条巷に住んでいましたが、それは大方巷の難民区にあり、旧の兵工署の建物でした。日本の軍隊が12月13日に南京に入ってくるなり、一般市民に大虐殺をやりましたが、全くむごい非道なものでした。わが家は10人いたのが、日本兵の野蛮さで5人も惨殺されたのです。
 私の姑の周洪氏は、その時55歳で、叔父の周必富は、51歳でした。夫は5人兄弟で、一番上の周永春が36歳、2番目の周永寿が33歳、3番目の周永財が30歳、4番目の周永林が27歳、5番目が私の夫で、名を周永其といい、24歳でした。家にはまだ子ども2人と私がいました。日本兵がやって来て大虐殺をした3日目、つまり冬月14日の、朝8時過ぎに、日本兵7,8人が私たちのいた塀囲い内の難民100人余りをみんな駆り出し、鉄条網で囲み、1人1人検査して、頭に帽子のたがが見て取れる者と、手や肩にたこが出来ている者とを引っ張り出して、「中央兵」だと言い、別の列に並ばせました。我が家の男たちは止馬営で野菜を作っていて、兄弟たちと叔父は手に馬鍬をつかみ、肩に天秤を担ぐのですから、たこが厚くなるのは当然なのです。日本兵は叔父の周必富や義兄の永春、永寿、永財、永林たち5人をみんな立たせて、中央兵だと言い、「スーラスーラトィ(死んじまえ、死んじまえ)」と言いました。間もなく日が山に沈もうとする頃、日本軍7,8人が引っ張り出して来た110人をみんな陰陽営のある沼に駆り立て、機銃掃射して死なせました。何日経っても誰も死体を片付けられませんでした。10何日もしてやっと紅卍字会が死体を埋めてくれたのです。
 明くる日、姑が恐がって私の夫と子ども2人とを天井板の上に隠し、私を金陵女子大学にやって身を隠させました。我が家が災難にあった日は、丁度3番目の兄永財の誕生日だったので、かなりはっきり覚えているのです。かわいそうに永財兄さんは、冬月14日のこの日が、生まれた日であり、死ぬ日でもあったわけで、何とも惨めです!姑は一日の内に息子4人と、義弟1人が死んでしまったのですから、もう悲しみに打ちひしがれ、難民区では泣けませんでしたが、止馬営の家に帰るなり大泣きに泣いて、その所為で大病を患ってしまい、3ヶ月余りしてやっとよくなりました。日本の侵略者のこの野蛮な行動は、私たちは永遠に忘れられません。(馬管良と陳裕民が記録)

  
 
 「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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「無人区」の設定

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定

  日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。

 「無人区」の設定

 日本軍は抗日勢力を孤立させるため、農民多数を居住地から強制的に追い立て、一定の場所に建設した「集団部落」に集中して居住させました。こうして、広い地域を「無人区」に設定し、民衆と抗日軍との連絡を切断しようとしたのです。
 日本軍は万里(ばんり)の長城を「満州国」と華北との境界地帯にしていましたが、1941年秋から42年にかけて、共産党と八路(はちろ)軍の指導のもとに、長く伸びる長城線の南北に、広大な帯状の抗日根拠地が築かれました。これに脅威をいだいた日本軍は、傀儡(かいらい)の「満州国」軍を動員して、この区域一帯の住民を集団部落に強制移住させたあと、もとの村々を焼き払い、抵抗する住民を殺害し、長城線上500キロ以上にわたって「無人区」を設定しました。住む家や畑を失って、膨大な数の農民が飢えや寒さ、疫病などで死んでいきました。
 日本軍は、農民が「無人区」に住んで耕作することを厳しく禁止しました。
集団部落内では米穀(べいこく)を統制する政策が実施され、農民たちは穀物を食品に加工する道具まで没収されました。日本軍は農民が生産したいっさいの食糧・果物類を倉庫に保管することを定めて、個人が蓄えたり、売買することを厳しく禁止しました。従わなければ、厳罰を受けました。集団部落の生活は農民の身体の自由まですべてを奪ったのです。

   無人区  


  長城線無人区を行く    


「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  王鵬清(男、72歳)の証言

 日本の軍隊が南京に来てなかった時、私の家は居安里7号でした。私は鍛冶屋の仕事をしていて、父母はいずれも50歳前後で、家にはほかに妹1人と私の妻が居て、家の暮らしは主として私に依っていました。
 1937年の12月13日に、日本兵が入ってきた時に、わが家は牯嶺路18号の難民区へ引き移りました。私はその時もう25歳になっていて、半年前に結婚したばかりでした。私たちは一日中家の中に隠れていましたが、妹と妻とは外で隠れていて、家に帰ろうとしませんでした。日本軍が入って来て半月くらいした、ある日の午前中、晴れた日だったと覚えていますが、日本兵がわが家の家の付近一帯で戸別に捜査をして、もう既にたくさんの人を寧海路に集め、その人たちの手にたこができているかどうか、頭に帽子のたこがあるかどうかを調べていましたが、それは主に兵隊だったかどうかを見たのでした。私は逃げられるものではないと思い、家で隠れているしかありませんでした。昼ご飯を食べた後、確か1時か2時頃かに、日本兵が4,5人わが家に捜索にやってきて、私の手に鉄を打つのでできた硬いたこがあるのを見つけ、どうしても連れて行こうとしました。母が泣きながら「これは兵隊ではありません。鉄工をしていたのです」と言い、鍛冶屋の道具を持ち出してきて見せましたが、兵隊たちは全く相手にせず、むしろ憎々しげに銃床で父と母とを殴り倒し、やっほやっほと無理矢理に私を連れて行きました。私は母が身も世もなく泣き叫ぶのを聞き、自分の命が保ち難いと知り、これから先父と母と妻と妹とが生活をどうやって行くのだろうと思ったら、途端に悲しくて悲しくて、どっと目に涙が溢れ、声を上げて泣きました。
 日本兵は私を寧海路に連れて行きましたが、そこには既に200人余り捕まってきた人がいて、みんな平民大衆でした。日本兵は縄で1人ずつ両手首を縛り、4人1組にし一緒に縛り付け、日本兵が両側に付いて、私たちを虎踞関まで駆り立てました。虎踞関に着いたら、私たちはそばに沼のあるくぼ地の1つに追い立てられ、日本兵がその周り地の利の良い所に機関銃を据え付け。数十人が私たちを取り囲みました。この時既に午後3時か4時で、日本軍将校の号令一下、機関銃やら小銃やらが一斉に私たちを射撃しました。弾が一発頭の上をかすめて鮮血がほとばしり、私は頭が何だかこん棒で殴られたような感じでしたが、途端に倒れてしまいました。射撃が停まった後、足で死体を蹴る音をかすかに聞きました。蹴られた時は、動きませんでしたが、間もなく気を失ってしまいました。気が付いた時は、もう真夜中で、日本兵はとっくに行ってしまっていました。私は死体のうずたかくなった中からゆっくり這い出しましたが、身体中血だらけでした。私は来た道に沿って手探りで家に帰りましたが、道には1人もいませんでした。家に着いて戸を叩いたら、母が起きてきて戸を開け、私が帰ってきたのを見て、びっくりして大喜びし、急いで頭の血をきれいに洗い落とし、灰をぬってくれました。こうして何とか急死に一生を得て、思いがけず活きてこれたのです。(秦景峰と曹義富と顧蘇寧が記録)
 
       
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定

  日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。

  三光(さんこう)作戦

日本軍は、華北において中国軍がおさえていた地域、とくに中国共産党が解放した抗日根拠地に対して掃討(そうとう)作戦を実施しました。それは、日本軍に抵抗する軍人・民衆の生存条件を徹底的に破壊することを目指した作戦で、中国では焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)した「三光作戦」と呼んでいます。日本軍はこれを「燼滅掃討作戦(じんめつそうとうさくせん・・・燃えかすがなくなるまで徹底的に滅ぼす作戦)と呼びました。
 北坦(ほくたん)村の虐殺事件は、日本が華北で行なった「三光作戦」の1つです。1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団の一大隊が冀中(きちゅう・・・河北省中部)抗日根拠地の定県の東南25キロにある北坦村を急襲しました。村は平原にあって、220世帯、1227人が住んでいました。村人たちは日本軍から逃れるため、全村をつないで掘っていた坑道に隠れました。
 その坑道に日本軍は毒ガスを投入したのです。中毒死と射殺によって1100人余りが殺害されました。女性は、毒ガスで殺害されたほか、多数が強かんされました。村の家屋36軒が焼かれ、食糧や財産も略奪されました。

  三光作戦
化学兵器CAREみらい基金ブログ
 
     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  韓宝如(男、80歳)の証言
 1937年に日本軍が南京を占領した時、私は老西家大塘15号に住んでいました。日本兵が入ってきた2日目に、私は家の戸口で日本軍が銃で男女6人を撃ち殺したのを目撃しました。3日目には天山路で4人日本軍に殺されるのを見ました。1937年の12月中旬に、日本兵が天山路43号に泊まっていたのを、隣の倪徳秋が好奇心から見に出かけたら、日本軍に一発撃たれ、腸が流れ出て死んでしまいました。その場にいた人が驚いて叫びだしたので、日本兵がすぐ驚き叫んだ人に向かって発砲し、隣人の王伯母さんと、施校支さんと、施校賓さんとの3人を撃ち殺しました。私はその時家で隠れていて、窓からこの惨状を目にしたのです。(賀家宝が記録)

       
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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無差別爆撃

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定

  日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。

 無差別爆撃

 日本軍は、国民政府の抗戦意識を失わせ、屈服、投降を迫るため、1938年から1943年にかけて、膨大な数の飛行機を出動させ、中国抗戦の政治・軍事の中心であった重慶(じゅうけい)に対して「戦略爆撃」を行ないました。そのため、多数の市民が犠牲になりました。
 1941年6月5日、日本軍機24機が3隊に分かれてくり返し重慶を爆撃し、空襲は5時間にも及びました。この時、18梯(てい)大地下壕にたくさんの市民が避難しましたが、人数が多すぎたうえに通風が悪かったため、1200人前後の市民が窒息死(ちっそくし)しました。これが有名な「6・5大地下壕事件」です。
 中国の辺境に位置するいくつかの省を除いて、他の全省が日本軍機の爆撃を受けました。軍隊・軍事施設と民間人とを区別しない無差別爆撃は、民衆の生活に大きな災難をもたらし、人々の生活を長期間にわたり恐怖に陥(おとしい)れました。

  無差別爆撃


     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  戴秀英(女、69歳)の証言

 1937年の12月13日に日本の侵略者が南京に入った時、私は家中で難民区にいました。2,3日もしない内に、日本軍の2,30人ほどが、武器を携え、難民みんなに広場に集まらせ、集めてから男女分かれて立たせました。日本軍は男の人たちの前に行き、1人1人調べ、凡そ手にたこのできている者や、頭に帽子でたがをかけたあとのある者は、兵隊だったと見なし、トラックで2台ほど一緒に連れて行きました。連れて行かれた人たちは玄武門の近くで銃殺されました。後に、西家大塘でこの人たちの死骸を見つけた人がいました。(井昇安と丁亜慶が記録)

      
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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15年戦争時、中国・日本で起こったことを書きたい。

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