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南京事件前夜:日本軍の空襲とイマジン9

ラーベの日記を読んでいると、日本軍の南京攻略戦における空襲の様子がよく分かる。 ジョン・H・D・ラーべ(1882年ハンブルク生まれ。1911年にドイツの世界的コンツェルン、ジーメンス社に入社。ナチ党員。日中戦争が深刻化し、首都南京が陥落したときは当地支社長だった。日本軍占領下の南京で、国際安全委員会の代表となって中国人を救おうと奔走する。1950年、ベルリンにて死去する。)が、南京攻略戦前夜から陥落後の様子を日記に書いていた。 [「南京の真実」(ジョン・ラーベ著):講談社]より引用 1937年9月21日 裕福な中国人はとうに船で漢口へ避難し始めていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、19,20日と、続けて4度の空襲にみまわれるまでは、ごく平凡な毎日が続いた。  アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていった。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。・・・・・・ 10月3日 政府高官筋の人々、とりわけ蒋介石夫人の宋美麗はドイツにあまり好感を持っていないという噂だ。 ドイツが日本と防共協定を結んでおり、ソビエトと同席したくないという理由から、ブリュッセル会議への出席を拒否したからだ。 「私たちの味方でない者はすなわち敵」と夫人は言ったという。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ?いまや中国人があんなに誇りにしている高射砲部隊、つまり防空隊を導入したのはいったいどこの誰だ?ドイツ人の軍事顧問じゃないか!北部ではろくに訓練されていない兵士が逃げ出しているというのに、上海付近の軍隊は勇敢に戦っている。だれが訓練したと思ってるんだ?ドイツ人の軍事顧問だろうが!南京から逃げずにがんばっているのは?ドイツ人の軍事顧問と我々会社員じゃないか!こっちに言わせれば、南京に残るのはまさに犠牲的行為以外の何ものでもないんだ。それなのにやつらにはそれがどうしてもわからない!なんせ自分の国にいるんだからな。・・・・・  薬がなくなりそうだ。天生薬房(薬局)は、このあいだの爆撃で派手にやられて店を閉めてしまった。 ・・・・・・・・   けが人を大ぜい乗せたトラックが毎日到着する。大したけがではないが、どの人も痛々しい。汚れた包帯をまいて、泥がこびりついている。まるでたったいま塹壕(ざんごう)から出てきたみたいだ。医師のヒルシュベルクさんがいてくれるのがせめてもの救いだ。彼の家族もまだ残っている。・・・・・ 10月6日 18時から19時まで、トラウトマン大使(駐華ドイツ大使)がお茶を飲みに来ていた。一時間ほど一般的な情勢について話し合った。お互い少々悲観的になっている。北部は陥落してしまった。これはどうにもならない。だが、南京は上海に守られているために、中国人は戦争の中心は上海だと思っているようだ。だが、いつまでこれが続くだろうか? 10月13日 薄曇り。不穏な日だ。だが、このあたりは無事だった。8時に空襲警報。だが、15分後に解除された。警報のたびに男も女も子どももみな、貧しい人たちが大ぜいわが家のそばを通り抜け、五台山へと、逃げていく。かなり大きな防空壕があるのだ。これだけでも悲惨きわまりないというのに、小さい子どもを抱いた母親たちのおびえようといったら!見ていられない。今日はそういう人たちが4回もここを通り過ぎていった。    防空壕を広げよう。ドイツ語の話せる沈(セン)さんと馮(フォン)さんが、わが家の近くの支局に転勤してきた。空襲警報が鳴ると二人ともここに避難してくる。いつも郵便物を配達してくれる二人も常連だ。そのうちに泊めてくれといってくるだろうが、場所があるだろうか。私自身はここのところまったく防空壕に出入りしていない。・・・・・ (IMAGINE 9)【合同出版】より 想像してごらん、 武器を使わせない世界を。 Imagine, A world that doesn’t let weapons be used. 憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。 なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。 それはこれまでの歴史が証明しています。 核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、 世界はまだ暴力と戦争だらけです。 (アメリカ/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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南京事件の日々

南京が攻略された時、南京に残って安全区を作り、そこに避難してくる避難民を守った外国人たちがいた。 南京難民区で活動した外国人たち【ここであげたうち、ラーベがドイツ人である以外は、すべてアメリカ人】(「南京事件」笠原十九司著 岩波新書)より引用 ジョン・ラーべ  ジーメンス社南京支社支配人。ナチス党支部長代理。南京安全区(難民区)国際委員会委員長、帰国後南京事件をヒトラーに報告、対中・対日政策の変更を願ったが、逆にゲシュタポに逮捕される。 ジョン・マギー  アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会委員長、南京安全区国際委員会委員、日本軍の蛮行を厳しく批判すると共に、良心的な行動をとった日本人将兵についてもきちんと記録している。 アーネスト・フォースター  アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会書記。カメラが趣味で、多くの記録写真を残している。 ルイス・スマイス  金陵大学社会学教授。南京安全区国際委員会書記。社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。 ジョージ・フィッチ  YMCA国際委員会書記。中国蘇州に生まれ、中国語が堪能で南京安全区国際委員会のマネージャー役を務める。 マイナー・ベイツ  金陵大学歴史学教授。南京安全区国際委員会委員。委員会の中心メンバーとして、財務実務や日本大使館への抗議交渉を担当した。知日派としても知られる。 ロバート・ウィルソン  金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。南京国際赤十字委員会委員。南京占領時、唯一の外科医師として医療活動に従事。 ミニー・ヴォートリン  金陵女子文理学院教授。宣教師。南京国際赤十字委員会委員。強姦・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた。1940年アメリカに帰国し、翌年自殺。 明日からは、ラーべとヴォートリンの日記をもとに南京事件をどのように描写したかを見ていきたい{IMAGINE 9}より【合同出版】より 想像してごらん、 おたがいに戦争しないと 約束した世界を。 Imagine, A world that promises not to fight wars with each other戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。 でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にうすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺 and IMAGINE9

日中戦争では、日本刀が広く使われた事が、『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)を読むとよく分かる。南京攻略戦の途中から百人斬り競争を始めた、二人の少尉は戦後南京の裁判で処刑されたが、その二人はたまたま大新聞の記事になって有名になったから処刑されたのであり、その他にも沢山の日本人兵士が日本刀で、中国人を斬った。それが戦いの最中なら正当性はあるが、残念ながら、敗走する兵を後ろから斬ったり、捕虜にした無抵抗な兵士を据え物斬りしたりもした。前述の百人斬り競争の中身も、このように斬られたものがいたという。  ともかく、中国戦線に於いては日本刀が威力を振るった。 著書に載っている一例をあげる。地方紙「新愛知新聞 三河版」 【隊長からもらった日本刀で敵の首32!新城町の剣道選手・・・君の痛快な武勲をきく】 (1938年6月17日) ・・・・・・・・・ 隊長より特に剣道の腕を見込まれ、隊長所持の伝家の日本刀贈与の栄光に浴し・・・徐州攻撃参加の激戦には真っ先に振りかざして突進、真っ向当竹割と敵兵の首12個を吹っ飛ばした。すでに幾多の戦闘にても18個の首を切り落としており、衛兵勤務の立哨中敗残兵2名が出没したが、このときなどは敵は無茶苦茶で簡単に斬り落とすことができた。現在刀の刃はボロボロに濡れているが零れているが、切れ味は大丈夫だ。  合計32首を葬ったが、凱旋までには50個を血祭りにあげる覚悟だから安心していてくれ。 このような記事がいろいろな地方紙に武勲として紹介されていた。当然その当時の日本は国民こぞっていけ!いけ!モードであったのだから。 敵国の中国人を沢山斬ることに何の疑問もはさまなかっただろう。たとえ、それが無抵抗なものであっても。勿論捕虜を斬るとか、敗残兵を斬るというのは戦時国際法違反である。 {IMAGINE9}【合同出版】より 想像してごらん、 武器をつくったり 売ったりしない世界を。 Imagine, A world that doesn't Make or sell weapons. 紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。 その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。 アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。  だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。 9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺and{IMAGINE9}

南京攻略戦は現地の師団の独断専行によるものであったが、勿論軍中央にも南京攻略を積極的に進めるべきだという勢力もあり、それが力を持つようになった。  11月20日、天皇が直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、24日には天皇臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳部が出席して第一回大本営御前会議が開かれた。開かれたということは、本格的な戦闘に入ったということだろう。  12月1日、大本営は「中シナ方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下令して、中シナ方面軍の独断専行を正式に追認した。  12月14日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」が下賜(かし)された。  陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉 中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)   大元帥陛下にどのような情報が伝わったか分からないが、中国では以下のような事が起こっていた。 「陣中日記」の続き。 12月27日 午前8時、野菜の徴発に出る。漢中門を出た所には五、六百の死体が真っ黒に焼かれ折り重なって倒れている。焼けただれた皮膚が黄味を帯びて全く見苦しい。戦闘が間遠になっている関係か気持ちが悪くなった。あちこちにこのような無残な死体が散乱していた。  大きな橋を渡りさらに進む。道端にはさらに遺棄死体が転がっている。・・・・・こじんまりとした部落につく。当部落には避難民が多く集まっているが大多数は老人か子どもである。・・・・・・・・・・・・・(「牧原日記」) 12月31日 逃散兵が河の波打ち際に五,六百名ほど殺されて投げられていた。(「上羽日記」) {IMAGINE 9}より 想像してごらん、 軍隊のお金をみんなの 暮らしのために使う世界を。 (アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。 日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。 そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか (ケニア/男性) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

笠原教授の「南京事件」の記述による     南京大虐殺の定義と範囲南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。  事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。  事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中シナ方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中シナ方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。」 「陣中日記」の続き 12月22日   於南京 馬家山砲台および同火薬庫一帯南側より清沿山砲台、水道塔、文化学院、漢西陵以北の地区内の捜索を実施す。午後四時掃蕩を了し帰還す。(四中隊日誌」)  特務兵が何処にいたものかシナ兵を引っ張り出して水溜りのところで殺している。你公(にいこう)が大勢たかって見ている。(「北山日記」) 12月23日  軍司令部南京に移動と共に大隊は軍直轄となり同地の警備に任ず。(「四中隊日誌」) 12月27日 漢中門を出て、菜っ葉、水牛の徴発に行く。出たところものすごい死人の山である。五百を超えるであろう。折り重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のもいる。大方敗残兵をしたものであろう。道路の両側も敵兵の死体でいっぱいである。(「北山日記」) {IMAGINE 9}より 想像してごらん 世界から戦争のなくなった 平和なせかいを。 でも、どうやったら そんな世界がやってくるのかな? 一つひとつ考えてみよう。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

昨日書いた食糧の調達についての補足を書きます。笠原教授の「南京事件」に次のような記述があります。  南京事件の前史 近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに別れ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部隊からの食糧・軍事物資の補給を受けながら前進していく。したがって、前線部隊の新たな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてからおこなうのが常識であった。ところが中シナ方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部隊は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」をあおられ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中シナ方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵のよる」という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった。  中シナ方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残しての出征であった。上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間にくすぶっていた。それらの不満のはけ口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された(国府台陸軍病院附軍医中尉 早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象とその対策」・・・・・・・・・・・・  このようなわけで、兵士たちは徴発せざるを得なかった。 12月16日(1937年)  本日各大隊は掃蕩に出る。多くの敵の焼死体があちこちに転がっている。真っ黒にこげた死体、また黄疸のように真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終わってみると可哀想である。何処の部落に行っても若い男は一人もいない・・・豚一頭殺して早速料理して食う。鍋の徴発にはいかにも困った。苦労した。(「牧原日記」) 12月17日  白水橋着同地付近の警備に任ず。(「四中隊日誌」)  敗残兵の掃蕩を行う。多数の捕虜広場にいるを見る。(「増田日記」)  午前八時半、謝塘を出発。部落を通過ごとに火をつけて南京へ向かう。今夜も2,3ヶ所に火の手があがっている。(「牧原日記」) 12月18日  白水橋西北方地区掃蕩のため大西伍長以下21名午前8時30分出発、午後0時20分帰隊す。(四中隊日誌」)  ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクをさげるやら、種種様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ。(「上羽日記」)  八時に食事を終わる。皆の者は何時とはなしに徴発に出る・・・あめ、もち米、唯米、それに醤油等、色々と徴発品があったので当番も大助かりだった。(「牧原日記」) 12月21日  太平門の入口に死体五百名ほどうちころし、無残につんであった。人間ははかないものなり。腹を突き破り、頭、顔など所きらわず切った死体、砲車などなかなか奮戦の跡を思わせる。(「上羽日記」)にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ  

南京大虐殺

日中戦争では、日本軍には捕虜と言う言葉はなかったようである。日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜になることは最大の恥辱だとされるような風潮があった。1941年には「戦陣訓」が出て、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という捕虜否定思想の徹底になった。ましてやもっと蔑視、軽視していた中国軍の捕虜に対しては、なおさらその権利を認めなかった。  中国で戦っていた日本軍(皇軍)は後方支援がなかったから、前進したら、夜営する場所、食糧はすべて、自分たちで見つけなければならなかった。民家に押し入り、食糧や寝床を占拠した。勿論人がいれば殺した。自分たちは正義の戦いをしていると錯覚し、中国人を人とも思わなかったふしがある。人としてどのように扱うか全く考えていなかったようだ。  中国のその当時の首都南京に入っても、状況は変わらず、当番を決めて、食糧をあさっていた。(徴発していた。) 敗残兵や武器を捨てて民間人に成りすましている(便衣兵)と思われる人などを片っ端から捕まえては、殺してしまった。本来、捕虜を処刑する時、戦時国際法にのっとって、裁判にかけてから刑を執行するのだが、それもしなかった。  大量の捕虜がでれば、その人たちに食べさせる食糧も必要だ。だが、その時の日本軍には全くの予備の食糧などないのだから、現地指揮官も、どうしていいのか分からなかったのだろう。パニック状態になっていたと思われる。 陣中日誌の続き・・・・ 12月15日 話によれば城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人いて、これを機関銃で囲んでいるそうな。また、紫金山のトーチカ内に一ヶ師団ほどいて、これも囲んで守っているそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引っ張り出してさがして行く。(「上羽日記」) 12月16日 南京東側地区掃蕩のため午前7時30分露営地出発、硝石村に向かい前進す。情報によれば南京東地区には敗残兵多数あるもののごとし。連隊主力の掃蕩により敗退する残敵を捕捉殲滅せんとすにほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

今、私は多くの日本人が出来るだけこの問題には触れたくない・忘れたいと思っている問題を取り上げている。  でも、加害の事実ははっきりと認識しなければ、日中の真の友好はないだろうし、中国だけでなく、アジアとの共生も難しいと思う。大東亜共栄圏などというまやかしの政策で侵略したのだから。  笠原教授によると「南京大虐殺の主因は日本軍が南京を防衛する中国軍に対して徹底した「包囲殲滅戦」、つまり中国兵の皆殺し作戦を実行したところにある。その背景には南京攻略戦は「暴戻なる抗日シナのよう懲(日本に歯向かう乱暴な中国を打ち懲らしめる)」のための戦いだという傲慢な考えと、中国軍には戦時国際法を適用しなくても国際的には問題にならないという蔑視と、さらに中国人を「チャンコロ」「シナ人」と蔑称して人間以下とみなす差別意識があった。中島今朝吾第16師団長みずから「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片っ端よりこれを片づくることとなしたる」(「中島今朝吾日記」12月13日)としているように、捕虜は保護せずに虐殺した。  第13師団山田支隊(若松歩兵第65連隊)も、支隊長山田栴二少将の「陣中日記」に、「12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。斯く多くて殺すも生かすも困ったものなり」「12月15日 捕虜の始末その他にて本間少尉を南京に派遣し連絡す。みな殺せとのことなり」と書いてあるように、捕虜集団の大殺戮をおこなった。同支隊では16日と17日に長江岸で捕虜を殺戮、18日と19日をかけてその死体を長江に流して片付けたのである。」とある。  勿論、民間人か、兵士か分からない場合も多々あったので、巻き込まれた多くの一般人も多かったろう。  昨日の続き・・・  飛行機残敵掃蕩(「上羽日記」)  空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回している。午後二時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時過ぎ掃蕩から帰る。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなどと思っていまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山いたという。生かしておけば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。尊い生命がなんのちゅうちょもなく失われていく。戦争の苛烈な姿をつくづく感じる。(「北山日記」)・・・・ 何とも、戦争とはこわいものだ。自分ではしたくないことも強制的にやらされる。 しないと、こっぴどい目に遭うだろう。 皇国日本の軍隊(皇軍)が中国でおこなったことは、何ともむごいことである!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

日中戦争は、満州事変とは比較にならない本格的な戦争であった。日本は1937年(昭和12年)12月の南京占領までの第一段作戦において、陸軍は戦時編成の16箇師団を中国戦線に送り、海軍は第2、第3艦隊と航空隊の主力を使用し、1万8千の戦死者と5万2千の負傷者を出した。(遠山茂樹他著「昭和史」岩波書店)  近衛内閣は「八紘一宇」などをスローガンに掲げ、侵略を正当化した。【「八紘一宇」とは「世界を一つの家とすること。第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。」(大辞林)】  天皇が家父長で、周りの国々の人々は下僕として仕えることか?  国民には勤労奉仕や節約を強制した。パーマネントをやめさせ、国民服やモンペ姿を男女の制服・日の丸弁当をおしつけたりした。  そのような生活全体が戦争一色の時代である。 南京陥落後、南京で何が起こったか?昨日の続きを書こう。 「今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。 昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、なき戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置についた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑なシナ家屋を一々さがして、男は全部調べた。大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服(普段着)と着替えつつあるところを第二小隊の連絡係前原伍長らが見つけた。それというので飛び込んで見ると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。傍らには小銃、拳銃、青龍刀など兵器が山ほど積んであるではないか。軍服のままの者もあれば、早くもシナ服に着替えている者もあり、また、下に軍服を着て、上にシナ服をまとっている者もあるが、いずれも時候はずれのものや不釣合いの物を着ているので、にわかごしらえである事が一目で解った。  片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下がっている電線で引くくり、数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめとして気の立っている者どもは、木の枝や電線で力任せにしばき付けながら 「きさま達のために俺たちはこんなに苦労しているのだ、エイ」ピシャン 「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲となっているのか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。 「貴様らのためにどんなに多くの国民が泣いているのか知れんのだぞ」エイ、ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、ポン「こらこの餓鬼もだ」ポン、素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも三百人くらいはいる、ちょっと多すぎて始末に困った。  しばらくして委員会の腕章をつけたシナ人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの大きな建物を指して「多々的有」と答える。その家に入ってみるといっぱいの避難民だ。その中から怪しそうな者一千名ばかり選び出して一室にいれ、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選び出して最後に三百人くらいの奴を縛った。金を出して命乞いをする者もあったが、金に欲のない我々は十円札、三枚五枚と重ねたままピリッピリッと引き裂きポイッと投げる。また時計など出すのがあれば、平気で大地に投げつけ靴のかかとで踏みつけて知らん顔している。  夕闇の迫るころ、六百人近くの敗残兵の大群を引き立て、玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった。(増田六助「南京城内掃蕩の巻」『増田手記』)」 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

シナをよう懲するとして1937年日中戦争が始まった。よう懲とは、国語辞典で調べると「敵に大打撃を与え、二度と戦争が出来ないようにこらしめること。」とある。かなりの強行姿勢である。近衛首相は国民の戦意高揚をあおり、挙国一致の国民精神総動員を呼びかけていった。その運動とは、国内体制も急速に戦時体制に切り替えて、総力戦に向かうことらしい。その一方で社会主義および自由主義思想に対する取締りが強化された。  その当時の世界の流れは帝国主義であったから、「大日本帝国」の日本は中国を侵略していても何の罪悪感は無かったのだろう。  現人神の天皇の統治する国土が増えれば世の中が平和になるとでも考えていたのだろうか?その裏で残虐な行為が繰り広げられた。  今読んでいる本『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)に南京城内の掃蕩した部隊のことが書いてある。  【歩兵第20連隊(大野連隊)の「第四中隊陣中日誌」と同連隊の兵士たちの陣中日  誌(『南京事件京都師団関係資料集』より引用とある)】 12月13日 西山を一回りして降りてくると、壕内に敗残兵がいたと大勢の人たちが集まってヤイヤイ言っている。紅顔の美少年である。シャツは抗日救国連合会の署名入りのものを着ている。祖国中華民国を守れとずいぶん苦労をしたろう。あまりみんなが残酷な殺し方をしようとするので見るに忍ばず、僕が銃殺しようとするが、皆が承知しない。戦友が無残な死に方をしたので、ただの殺し方では虫が納まらぬのだと言っている。無理からぬこと。だが余りにも感情的ではないだろうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてなるだけ苦しめずに一思いにバサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだろうか。少しの抵抗もせず、ここを撃って殺してくれと喉を示て哀願するのを寄ってたかって虐殺するのは日本の恥である。(「北山日記」)  戦車隊も9時頃から掃蕩に協力出動した。(「牧原日記」) 12月14日  午前十時より城内第二次掃蕩区域の掃蕩を実施す。敗残兵328名銃殺し、埋葬す。(「四中隊日誌」)にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

1937年(昭和12年)7月7日の北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突した。ときの近衛文麿内閣は、最初不拡大の方針を声明したが、しだいに軍部に押され態度が変わっていく。まず、7月11日に中国側の武力抗日にたいして反省を促す為の重大決意をもって華北に派兵すると言う「重大決意声明」。次にシナ軍の「暴戻」をよう懲し、持って南京政府の反省を促す為、断固措置をとると言う「南京政府断固よう懲声明」(8月15日)そして、断固として積極的、かつ全面的にシナ軍に対して一大打撃を与える為に挙国一致の国民精神総動員を呼びかけた国会における施政方針演説。原因究明をせず当時の軍部の拡大派の思惑に乗ってしまった感じだ。  上海に投入された上海派遣軍は、中国軍の激しい抵抗を受け、戦闘は長期化した。そして、やっと上海で勝利したら、松井司令官は南京攻略戦に走ってしまった。中国のその当時の首都が陥落すれば、中国は降参するだろうと言う思惑のもとに。ここでの戦闘が終われば祖国に帰れると思った兵士も多いと思う。上海から南京までの戦闘で何人もの戦友を失った恨みもあったに違いない。 そのような状況の中で南京大虐殺は起こった。以下は、昨日の鈴木記者の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」と言う回想の続きです。 {  ふりおろされた死のツルハシ 神経の凍る思いで、その場を去り、帰途に再び「功[励]志社」の門をくぐってみた。 さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名余の敗残兵が、針金で縛り付けられていた。どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、うつろな目で、私をジッと見つめた。  その時、数人の日本兵がガヤガヤと入ってきた。2,3人がツルハシを持っていたので工兵と知れた。そばに立っている私には目もくれず、その中の一人が、その大木の前に立つと、 「こいつらよくも、俺たちの仲間をやりやがったな」 と叫ぶや、やにわに、ツルハシをふりあげて、この無抵抗の捕虜の一人をめがけて、振り下ろした。鋭く光ったツルハシの先が“ザクッ”と音を立てて刺さり、ドクッと血が噴き出した。それを見たあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできず、他の兵の暴力のなすがままになってしまった。まさに目をおおう瞬時の出来事だった。この捕虜の中には丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるようなものもいた。それを私は、止めるすべもなく逃げ出した。  それから、15日[16日の誤り]に南京を去るまで、城内の取材にあたった。光華門に通じる道路の両側にえんえん続く、散兵壕とみられるなかは、無数の焼きただれた死体で埋められ、道路に敷かれた丸太の下にも、死体が敷かれていて、腕、足の飛び出している有様は、まさにこの世の地獄絵である。  その上を戦車は容赦なく、キャタピラの音を響かせて走っているのを見て、死臭、硝煙の臭いとともに焦熱地獄、血の池地獄に立つ思いがした。自らが“獄卒”の立場とある錯覚におちいるほどだった。  城外北方、揚子江の対岸、浦口と対する水陸交通の要衝である下関の場合はさらになまなましく、日本兵の急追に逃げ場を失った数千の兵、市民がここで、機関銃の掃射で殺され、まさに血の海、死体の山となり、さすがに広い揚子江の黄色い流れも、赤い血によどんで、多数の死体が漂っていた。  倉庫に密集するこの地の、ここかしこに、刺殺する兵の姿もみられて、恐るべき死の街と化していた。   } にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

南京大虐殺

右翼の論客と呼ばれる人たちがよく「南京大虐殺は幻だった」と言うようなキャンペーンを大衆雑誌などに載せることがあるが、史実はきちんと伝えないと本当に国際的に孤立してしまうだろう。この前の田母神さんの件のように。南京大虐殺についてはまじめに調べている人がいるのでそちらを参考にしてください。たとえば、「南京事件 小さな資料集」「南京事件の真実」「南京事件資料館」「南京事件資料集」等々。 笠原十九司著「南京事件」(岩波書店)に次のように書いてある。(167ページ) {入城式のための「残敵大掃蕩」 功名心にはやる松井石根司令官と中支那方面軍司令部が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日から17日にかけて、南京城の内外で全軍挙げての徹底した「残敵掃蕩・殲滅(せんめつ)」作戦を遂行することになった。  大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有の盛事、敵の首都への皇軍の入城」の一大セレモニーの日に、式場は勿論、城内、城外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。・・・・  こうして、17日に入城式を挙行する為に、南京城区だけでなく、近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。・・・・}  今、私が読んでいる本『「百人斬り競争」と南京事件』の180ページにはその現場のシーンを書いた文章がある。 { 鈴木記者は、そうした「残敵掃蕩」の現場を目撃したが、当時、そして戦後もそれを公表することはできなかった。のちに、「いまにして、現場記者として、ようやくこの一片の“証言”を書く勇気を持ったのである」として書いたのが、この「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という回想である。鈴木記者はさらに次のような虐殺現場を目撃したのである。  無抵抗な捕虜のなぶり殺し 明けて13日[14日の誤り]、・・・私たちはふたたび中山門に取って返した。そこで私ははじめて不気味で、悲惨な、大量虐殺にぶつかった。25メートルの城壁の上に、一列に並べられた捕虜が、次々に、城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙に飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。  そこに私はまた、私を突き殺そうとした兵の、形相とまみえることになり、しばらくその惨劇を見ながらぼうぜんと立ちすくんでいた。(つづきはまた明日のブログで) にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ    

日中戦争の出来事2

 昨日も書いたように、日本軍【天皇の軍隊(皇軍)】が1931年前後から1945年までに行った作戦には、残虐なことがことが多かった。
 日本軍に限らずどこの軍隊でも残虐なことは起こる。ソンミ村虐殺事件や枯葉剤での奇形児の誕生、劣化ウラン弾による被害、地雷よる被害、レイプ事件等々。
ただ、日本人はあの戦争について多くを語っていないように強く思う。と言うかあの戦争について多くを語らせない雰囲気が多分にあるように思う。
今、90以上のご老人は戦争当時第一線で活躍していたと思うが、あの戦争について証言している人はごくわずかだ。みんな戦友会から緘口令が出されているのか知らないが、「私は貝になりたい」と言う感じでほとんど戦争について語らず、好々爺になって、老人ホームなどで余生を過ごしている。
 かつて、10以上前になるかな?私が和歌山県の高野山を夏歩いていたら、宿坊に○○戦友会という看板があった。その当時でも戦友会が開かれていたのだろう。
 昨日引用した本から、日本軍の行動を見ていくと、また残虐な場面があった。
『こうした日本軍各部隊が作戦命令によっておこなった「食糧現地徴発」(略奪)と民家の「宿営」により、民家に入った日本軍将兵が、住民が隠れていれば殺害、女性を発見すれば強姦、自炊、暖をとるための民家の家具の破壊と出発の際の放火等々、蛮行に発展した・・・』(草場旅団の歩兵第20連隊(大野連隊)の兵士の陣中日記類を収録した「南京事件 京都師団関係資料集」)より
『12月4日 昨夜は大変寒くて困った。午前8時起床。2,3日は滞在の予定だと言うので今度こそは一服だと言うことで、早速徴発に出る。自分は炊事当番で岡山・関本と共に昼食を準備する。徴発隊は鶏、白菜などを持って帰り家の豚も殺して昼食は肉汁である。正午過ぎ、移転準備の命令があって大騒ぎ、結局中止となったのでよかった。各自焼鳥、焼肉(豚)をやってたらふく食う。』
『 12月5日 午前八時準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時は最早全村火の海である。』・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
『 12月4日 私たちは直ちに部落を掃蕩した。5人の男と一人の女がくくられた。五人の男は先ず木に縛られ、女は女なる故に解除放免した。木に縛られた男は突き刺されたり、斬られたり、射殺されたりした。それから直ちに部落に火を放って次の部落へ出発した。』
『 12月6日 私たちは宿営するにあたって先ず部落を掃蕩し、農民を殺して寝た。農民の死が私たちの睡眠の安全を保ってくれるのだ。私たちがわずか夜の明けるまでの3時間ほどを安眠するために多数の農民の血が犠牲にされる。』

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日中戦争の出来事1

今、読んでいる本『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)にこんな記述がある。南京での虐殺の前夜の出来事である。 「日本軍が常州で民間人を虐殺したことは、・・・・歩兵第20連隊近藤大隊の衛生兵の日記にも次のように記されている。  [11月29日 常州 午前10時出発、常州の敵を掃蕩(そうとう)に行く。正午入場す。住民を殺せの命により、全部で80人程老若男女を一まとめにし、夕方銃殺す。最初にして最後の光景ならん。全部一ヶ所に集める。念仏をとなえるもの、泣くもの、助けを乞うもの、惨状まったく目もあてられず、やがてひびく重機関銃によりバタバタ悲鳴をあげて倒れる光景は、まったく心を鬼にしても見ておられぬ。実際戦争は悲惨である。]  ・・・・小学校や民家から銃砲弾薬類などが発見された場合は、中国軍やゲリラの根拠地とみなされて、ほぼ例外なく住民は殺害され、村落は焼却された。」  南京を陥落させれば戦争は終わるだろうとの見方も当時の兵隊の間にはあったのだろう。  日本軍は、勝利をあせっていたのかもしれない。この村に限らずいたるところで、残虐な行為をしたようだ。 航空自衛隊空幕長だった田母神さんや右翼の人も、その当時の兵隊の日記等の一次資料を読まれたらどうかと思う。  まだまだ、私は当時の戦争の詳しいことは分からない。 中国に行ったとき(2006年)どこの駅か忘れたが列車を待つ待合室にテレビがあり、そこでは何と日中戦争をテーマにした映画をやっていた。向こうではまだまだ、過去のことではないように思われた。  また、各地に戦争記念館のようなものもあり、社会科見学で小学生なども見学している。  日本のいろいろな戦争記念館では、空襲や原爆の恐ろしさが強調され、南京虐殺の写真など中国での加害の事実を展示をしようとすると右翼の妨害に必ず遭い、展示を断念することが多い。勿論自民党による政治的な力も大きい!!残念なことであると思う!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

靖国神社に思う!!

日本人は、死んだ人を仏にしたり、神にする。よく、テレビで事故で亡くなった人や事件に巻き込まれて死んだ人の仏壇に手を合わせる場面を見る。家族は毎日仏壇に焼香し好きだった食べ物を手向ける。その心情は私にもよく理解できる。草葉の蔭から今生きている身内を見守ってくれているような感じがする。  また、明治時代に活躍した乃木将軍や東郷平八郎を軍神として神社まで作る。 その当時の人にとっては英雄だったのかもしれない。勿論国威発揚のために国策の感じもするが。  でも、これは私はどうかと思う。 先の大戦で亡くなった軍人は英霊として靖国神社に祭られた。東京裁判でA級戦犯として処刑された人々も祭ってある。侵略戦争をして加害を与えた人を神にする。 なんら、戦争の反省が微塵も無い感じだ!! これを、同盟国であったドイツで行えばどうか?激しい抗議が殺到するだろう!! 建物自体が取り壊されるだろう。 ナチスドイツの戦犯はずっと追及されてきている。時効はない。裁判にもかけられる。ドイツの場合、国境が地続きで、証拠も結構残されたし、何といっても大量虐殺したユダヤ人からの反撃が強かった。  一方、日本は戦争に負けても、周りは海に囲まれていて、被害国と距離があったし、被害国が内戦状態だったり、混乱していたことも、追及の手が緩んだのかもしれない。アメリカとソ連の対立も大きい。 勿論日本でも、首相が靖国へ参拝すると韓国・中国政府が激しく抗議するが、建物は戦前と変わらずあるのだ。戊辰戦争以来、国事に殉死した軍人を祭ることは別として、あの侵略戦争の最高責任者に近い人々を軍神として祭るのは明らかにおかしいと私は思う!!そして、その神社に隣接する遊蹴館という建物にはあの戦争で使われた戦闘機や武器などが自慢げに飾られている。入口付近には「大東亜戦争はアジアの開放のための戦争だった」とか何とか書いてあった。東京裁判を批判したインドのパール判事の胸像もある。あの戦争を美化し肯定している。  何で、日本はあの戦争のことを反省しないのか?と思う。  この神社には、夏に多くの保守系(自民党・民主党)の議員も参拝している。 そして、今回問題になった航空自衛隊の論文審査をした論客たちもここを信奉している。  あの戦争で亡くなったアジアの被害者の霊(勿論他国の軍人・日本国内で亡くなった方も含めて)、加害者(日本人)の霊を祭り、戦争は二度としないという慰霊の施設はできないものかと思う!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へクリックしてください!!

拉致問題に思う

最近、拉致問題のことをテレビがよく取り上げてりる。支援者の方々の思いや政府の力がテレビ局を動かしているのだろう。  昨日も横田夫妻がテレビのニュースに出て、さきえさんが涙ながらに訴えていた。 家族が急にいなくなったら、本当に心配だ!早く返してもらいたいと言う家族の思いもよく分かる。私も早く解決してもらいたい。 しかし、日本人は過去のことも肝に銘じる必要があると思う。 日露戦争に勝利した日本は1910年に韓国(今の南北朝鮮)を植民地化した。 そして、日本式の教育を導入した。神社参拝・天皇崇拝・創氏改名を強要した。 そして、逆らう人々を処刑した。  朝鮮人や中国人をたくさん強制連行して、炭鉱の採掘やダム工事に従事させた。 劣悪な環境で酷使され、亡くなったりや拷問にあった人も多かった。 花岡事件は有名だ!!  従軍慰安婦の問題もある。  日本の各地で当時強制連行させられて、辛酸をなめた人々が謝罪と賠償を求めて裁判を起こしているが、まだ、解決を見ていない。ここでも高齢化は問題になっている。 拉致問題は、日本人が被害者だから、国益だから報道するのか? 一方、戦前・戦中の強制連行は、日本は加害者で、国益につながらないと思っているのかよく分からないが、ほとんどマスメディアは報道しない!! 日本に強制連行された人々は過酷な目にあったが、北朝鮮に拉致された人はどうか? 蓮池さん夫妻をみても、あまりに過酷な状態には置かれていないように見える。  北朝鮮は、言論・思想・信条の自由が認められていないようだし、国民の生活も窮乏している。政府を批判すれば監獄に入れられるようだ。昔の大日本帝国のようだ。 私も好きではないが、拉致問題と同じ程度に強制連行された人々の裁判などをマスメディアは報道すべきだと思う!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へクリックしてください!!

天皇は神様ですか?

昭和天皇が戦犯として裁かれなかったのは大きな問題だ!! なぜ、日本人は天皇の戦争責任を問えなかったのだろうか?  思うに、日本人の宗教によるところが大きいと思う。  明治時代、日本が今までの鎖国から出て、近代国家に歩みだした時、日本をどのようにまとめようとしたかを見るとその答えが出てくるのではないか?  明治政府は、天皇を神に祭り上げることで日本をまとめようとした。  一人の、絶対的存在。誰も近づけぬ存在として。  大日本帝国憲法には以下のように記されたいる。 第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 臣民(国民)は学校で「天皇が神であること」を教えられ、神社参拝も奨励された。江戸時代までお寺が力を持っていたが、明治になると廃仏希釈が行われ、寺は壊滅的な損害を受け、神社が優位に立った。すべての神社はその土地の産土の神は天皇の先祖、皇祖皇宗にとって代わった。神武天皇を祭った橿原神宮は明治時代に急遽創られた。天皇が現人神であると徹底した教育が行われた。家や学校には天皇の肖像(ご真影)が祭られた。  敗戦の廃墟の中にただづんだ国民にとっては、戦争責任よりその日その日を生きていくことが大きな問題だった。勿論、戦中暗躍した特高の存在も影響しているかもしれない。言論の自由など無かったのだから。  国民には戦争に負けたのは国民の力が及ばなかったのだという「一億総懺悔」と言う訳の分からないことを言う皇族出身の首相も出たが。  東條英機と昭和天皇、どちらが戦争に大きく関わったか? 天皇と首相とはその存在に大きな隔たりがあったのは確かだ。 その影響力も違うと思う。  今でも、日本人は神社によくお参りに行く。今日も753で賑わっていることだろう。そこにはほとんど皇祖皇宗が祭られているのではないか?今でも、天皇は神の存在になってはいないか?初詣の参拝者数のトップは毎年明治神宮だ!勿論ここは明治天皇を祭っている。日本人にとって、今でも天皇と言う存在は大きいようだ。 そういえば、防衛省の守屋事務次官も防衛省の「天皇」と呼ばれていたっけ?  天皇と一般の国民、私には同じ人間にしか見えない。 日本人は、まだ、天皇教に明治からずっと洗脳されているように思える。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

麻生さん、どうしたの?

麻生首相が漢字を読み間違えたのには驚く!「詳細」「未曾有」「踏襲」「頻繁」 どれもよく使っている漢字だ。漫画ばかり読んでいると活字離れも進むだろう。 しょうがないことかもしれない。でも、一国の総理である。マンガ、英語は読めても漢字は読めなかったら、ちょっとこれから先大丈夫かなと思う。  今まで、麻生さんは頭の柔らかい知性に富む人かと思っていたが、航空自衛隊の論文問題に対する対処、定額給付金のやり方などを見ていると何か、怖いものを感じる。  まず、田母神氏の問題、何で懲戒処分にしないのか?ご自身も同じような考えをお持ちなのだろうか?甘いと思う!!  北海道新聞によると「この日の審議で、首相は前空幕長が国会で憲法の改正を明言したことについて見解を聞かれ、「(解任された)民間人の発言にコメントは差し控える」と素っ気なく答えた。  前空幕長を空自のトップに任命した自公政権の責任を指摘されても、「最初から分かって任命したのではない」という一言で済ませた。  首相は自衛隊の最高指揮官だ。問われているのは、こうした人物をつい半月前まで長年にわたって重用し続けてきた政治の責任である。  それを自覚して丁寧に語らなければ、再発防止に対する意気込みは伝わってこない。  首相は就任直後に訪れたニューヨークで、集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈について「これまで変えるべきだと言ってきた。大事な問題だ」と記者団に語った。  帰国後に自民党の中山太郎憲法審議会長らに対し、国会で与野党一体で議論するよう求めてもいる。  集団的自衛権の行使にまで踏み込んだ前空幕長の思考と、首相の考えは重なる部分がありはしないか。 」(引用)  自民党は、発足当時から憲法を変えようとしてきた。安倍さんになってから一層加速しだした。田母神氏を処分できないのは、首相はじめ自民党も同じようなことを考えているとしか思えない。  また、田母神氏は『前空幕長は在任中、全国の基地で講話などを行い、論文と同じ趣旨の発言を繰り返していた。  幹部養成のための統合幕僚学校長の時には「歴史観・国家観」の講座を新設し、カリキュラムに「大東亜戦争史観」などを組み込んだ。 』(以上北海道新聞)こんな教育が自衛隊内部で公然と行われているとは。最近の右翼論客家たちの書物が、書店に結構陳列されているのには、こんな背景があったのだ。まず、自衛隊から歴史を見直し、そして国民を洗脳しようとする構図。それに、文科省の動きも加わる。教科書にもいろいろ検定意見が加えられて、史実がゆがめられている。最近の沖縄に関する記述がそうだった。  本当にこれで田母神氏の件は終わりでいいのか?注目していかねばならない!!  次に定額給付金、やり方を地方に丸投げした形だ。首相と総務大臣の見解の違い。細かいところまでつめていない。これでは、地方が悲鳴を上げるのも無理はないと、この私でも思う!!麻生さん、鳩山さん、田母神さん、お三方は出世もしたし、さぞ、頭がいいと思うが、何をやっているのかな、いや、何をやっていたんだ!!と強く思う!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

[2006年中国の旅」の感想

以下は、2006年日中友好協会の旅に参加した時の感想です。旅先はコロ島と東北地方を訪ねました。            重い旅、中国!! 今、中国を一緒に旅行した方からいただいた中国のほおずきを味わいながら旅行を回想している。 「中国東北地方は広かった!!」 これが、第一の印象である。バスや列車で各地を回ったが、果てしなく続く大地に圧倒された。車窓に延々と続く穀倉地帯に中国の底力を感じた。  昔、満州で生まれ育った人たちのその後の逃避行の話を聞くにつけ、その大変な様子が頭に浮かび、“生きている”ことの意味を考えさせられた。  私が中国に行こうと決めたのは、日本軍(皇軍)が果たして中国でどんなことをしてきたのかを確かめたかったからだ。 退職後、一年間はぶらぶらしながら戦争の時の本を読んだりしていた。  中国ではいろいろな日本軍による残虐な行為があった。平頂山事件・南京大虐殺・万人坑・三光作戦・強制連行・731部隊を中心とする、生体実験などなど・・・・  その中でも、もっとも計画的・組織的に行われ、残虐なものは731部隊の罪業だろう。日本本土の陸軍軍医学校に指令室を置き、日本各地の帝大とも手を結び、ハルピンの施設を使って、いろいろな生体実験を行い、3000人もの犠牲者を出し、また、そこで作られた細菌爆弾によって多くの中国人に大変な被害を与えた。本来は命を救うべき医者が、医術に反して人間をモルモットのように扱い、平気?(日本全体が軍国主義の中で医者もなかなか自分の良心を口に出せなかっただろうが)で生体実験をし、生体解剖をした。すべては戦争に勝つための天皇の命令である。  日本政府・日本の医学会は事実は認めても、謝罪の気持ちは全くないようだ!!  慰霊塔もなければ謝罪の碑もなかった。どうしたことか?  神国?日本」のやったことはなんと残虐なことか!!  3000人ともいわれる犠牲者は本当に浮かばれない!!  巨大施設はソ連の侵攻前に爆破され、そこにいた職員は満州にいた誰よりも早く、列車で日本に帰還した。悪いことがばれないように証拠を隠滅したのである。満州から命からがらやっとの思いで帰還した人々とは雲泥の差である。  爆破前まで特別監獄収容されていたマルタと呼ばれていた人たちは、全員殺され、松花江に投げ込まれた。  731部隊に殺された多くの方々の冥福を祈る。  松花江に合掌!!!  「君が代」では「天皇の世が長く続くように」歌う。(昔は、「君が代」は長寿を祝うごく庶民的な歌であったらしいが、明治・昭和になると「君」は天皇をさすようになってしまった。当時の文部省が教科書にそう書いている。)  戦前・戦時中、「神聖にして侵すべからず」、「大元帥」、「現人神」、昭和天皇はそう呼ばれていた。その天皇は、戦争の作戦に関しても、積極的な発言をしている。戦後、残念ながら昭和天皇は正面から戦争の反省の弁を語ったことはなかった。 「戦争の最高責任者の世がずっと続くように」とは私は歌えない!! 「日の丸」は戦争中、侵略のシンボルになった。 ドイツ・イタリアは戦後、戦争の反省から国旗・国歌をみずからの手で変えた事実がある!!  日本では、論議が十分尽くされないまま、「日の丸」・「君が代」が法律で「国旗」・「国歌」になり、教育現場で強制されている。  思想・信条の自由は一体どうなっているのだろうか?  「日の丸」・「君が代」の象徴的建物が731部隊であったと私は思う!!  また、9月18日の衝撃は大きかった。柳条湖事件のことは、おぼろげながら頭にあったが、中国ではその日を大々的に記念日にし、この日を忘れまいとする姿勢には驚いた。夜の10時20分にはサイレンや警笛を鳴らしたり、テレビや新聞でも大きく取り上げていた。日本ではほとんど9.18など報道されない!! 加害を心から反省しない国と、大きな被害を被った国の違いだろうか?    戦後の撫順戦犯管理所の戦犯に対する人道的なあたたかい対応にも驚いた。これは、政治的な配慮で周恩来氏の気持ちが強いのだろうが。  ここから、多くの方が改心し、自分の行ったことを真剣に反省して、戦後帰国した時に、本人の体験を後世に語りだしたことはとても大きな影響を多くの人に与えたと思う!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

WBC侍ジャパン?日本刀?

プロ野球のワールドベースボールクラシックを指揮する布陣が発表されて、原監督らが挨拶をした。愛称は「侍ジャパン」だそうだ。  侍というと何だか古風な感じがするが、日本人には何か男らしさを感じさせるものがあるのだろうか?今でも時代劇はそれなりに人気があるようだし、チャンバラシーンは見ものの一つかも知れない?かっこいいのか、立ち振る舞いにしびれるのか私には分からない?  ただ、ここで考えてもらいたいのは侍は何を持っているかということだ?原ジャパンのシンボルにも描かれているようにもっているのは日本刀だ。  漫画のように見るのは何かかっこよく見えるが、これが実際身近にあったらどうか?何とも怖いものである。こんなのを振り回されたら、命もなくなるだろう。日本人と日本刀。何ともシンボルマーク?としてはこわい感じがする。  今、読んでいる本『「百人斬り競争」と南京事件』と言う本には日中戦争で軍刀としての日本刀をいかにたくさんの将校が使い、白兵戦で使ったり、投降兵や捕虜を殺害したかについて書かれている。  その当時は敵、中国人をたくさん斬ることは、名誉のこととして、地方新聞などには武勲として、掲載され、称賛された。  投降兵や捕虜の人々を斬ることは戦時国際法に違反していると言うことも知らずに。(無抵抗状態の中国兵の「据え物斬り」による斬首など)  靖国神社でも、靖国刀と言う軍刀が敗戦までに8100口作られたと言う。  日本刀が過去の戦争でアジアに与えた影響は大きいものがある!!  日本刀はアジアの人々にとっては脅威の存在だ!! こんな過去がある日本刀をシンボルマーク(?)にするプロ野球界の神経はどんなものなのだろうか? にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

防衛省の責任は?

今日の参院外交防衛委員会で、田母神氏が空幕長になる前からの言動や投稿について当時の防衛庁がきちんと把握していなかったとしているが果たしてそんなことがあるのか。空自の隊内誌であれば幹部は目を通すはずだ?通さなくても、問題だったら話題になるはずだ。何か防衛省は問題を隠している。あのような人の発言は目を引くし、書いたものは人の目に触れるものである。それをずっと容認していたのは大きな問題だ。防衛省の中核の学校で校長まで務めた人である。 防衛省自体の歴史認識が右よりではないのか?自民党の国防委員会でも田母神氏を容認する意見が出たと言う。自民党の中には特に靖国神社に参拝される議員の中に田母神氏と似た発言をする人が多い!!そして、国民もそういう人選挙で選んでいるのは現実なのだ!! まっすぐ、過去と向き合うのは本当に難しい!!人間は嫌な事は忘れたいということもあるだろう。靖国神社によく参拝している人がよく「未来志向!!」と叫んでいた。  でも、果たして、この問題を軽く考えていいのだろうか?過去の問題と言っても、今、現在、戦争の後遺症で悩んでいるアジアの人々はたくさんいるし、日本軍が中国に捨ててきた遺棄化学兵器(毒ガス弾)によって今でも多くの犠牲者が出ている現実。日本政府の対応は、防衛省の守屋次官の汚職がらみで遅れている。 田母神氏を処分できない防衛省!! 防衛省がこれからどんな省になるのか、私は大きな不安を抱いている!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

戦争責任!!

あの戦争について考えると、本当に誰が日本を無謀な戦争に駆り立てたのかと思う。戦前の日本は、天皇が現人神であった。学校にはご真影や教育勅語を保管した奉安殿が校舎とは別に建てられ、祝日等には教育勅語が校長によって奉読された。神社参拝の奨励され、日本人は進んで天皇のご先祖の皇祖神を拝んだ。  昭和天皇は、御前会議でただ座って作戦の報告や立案を聞いているだけではなく、自らも積極的に発言していたということを、最近の研究者は書いている。 中国ハルピンにある731部隊跡を訪ねても、そこの資料館には、1936年天皇署名の軍令陸甲7号により「関東軍防疫部」が発足したとある。あの広大な敷地に大きな施設を建てたのだから余程お金がかかったと思う。勿論国の予算でやったのだ。 天皇は知っていた。  日本がもう、アメリカ軍の空襲に遭い、焼け野原になっている時に、国体護持(天皇制)がいかにしたら守れるかに汲々になりポツダム宣言を受け入れるのが遅くなった為、2度の原爆投下、ソ連参戦、空襲などによって日本は大打撃を受けた。  日本人は天皇が神だと洗脳されていたので、と言うか、敗戦まで天皇は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の存在で批判したら、特高に目をつけられて、監獄で拷問にあった時代であった。降伏しても大きな混乱は無かった。そして、昭和天皇の戦争責任をきちんと日本人はが問わなかった。アメリカ国内やオーストラリアなどからは天皇の戦争責任の声は上がったが、マッカーサーがその声を封じてしまったのではないか。  日本は天皇の戦争責任をあいまいにしつつ、歩んでしまった感じがある。 今でも、天皇制は維持され、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」という私には意味の分からない存在として国家により守られている。宮内庁というお役所があり、また、皇居の中には神社があり、皇祖皇霊を祭り、祭事が行われている。今でも天皇は神のようだ。国民とは別格の特権階級だ。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

防衛省に思う!!

TBSの朝の報道番組を見ていたら、元北部方面総監?(よく覚えていない)と言う人が田母神さんの国会証言を聞いて、「自衛隊の人は100パーセント憲法を変えてもらいたいと思っているんではないですか」とコメントしているのを聞いてびっくりした。  冷静に考えれば、軍隊にいるんだから、憲法9条は邪魔なのだろう。 でも、それをテレビで堂々と言うとは?  明治から敗戦まで、日本は富国強兵路線をとって、先進国の仲間入りをし、国を拡げようと植民地を作り、侵略をどんどん進めた。本当にすさまじい勢いでやった。そのやり方も、731部隊をはじめ、南京虐殺事件・慰安婦問題に見るように日本軍のやり方は人道を全く無視したやり方だった。日本にいる家族にはどんなことをやっているか、報道は全くされず、南京が陥落した12月には提灯行列をしてみんなで祝った。 731部隊の人体実験やその後の処理、南京虐殺の全貌が明らかになったのは敗戦後だった。国民は驚き、本当にそんなことをやっていたのかと思った人も多い。 沖縄では、日本軍(皇軍)の邪魔になると自決を強いられたりもした。沖縄は本当に悲惨な戦場だった。 日本は強い軍隊を持って、やった後に残ったものは荒廃した国土だった。 その国土にいた日本人が、反省をして、アメリカの影響も大きいが、戦力を保持しないと誓ったのではなかったか。アメリカはその後朝鮮の内乱によって大きく態度を変えたが。「愛宕」と自衛艦の事故、自衛隊内部で行われているいじめ、守屋事務次官による汚職、それによって、中国の遺棄化学兵器の処理が遅れに遅れているなどなど、自衛隊の最近の事件を見ても、本当に今の防衛省は国民のためになるのかと思う。過去を見ても、本当に強い軍隊を持つことが平和につながるかよく考える時だと思う!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

田母神氏参考人招致!!

前空幕長が参議院に参考人招致された。

そして、持論を展開した。これには、本当に驚きである。

村山談話については「これは言論弾圧の道具だと気づいた」とかとんでもないことを言っている。

 この人が自衛隊の統合幕僚学校長を務めていたとはいたとは、また驚く。

そこでも、日本の歴史を歪曲して教えていたのだ。

 しかし、冷静に周りを見渡すと、政治家も結構右よりな人が当選しているし、学校教育などを見てもだんだん右寄りにうなっている感じが強くする。

今回の、参考人招致がテレビ中継されなかったことや、政府が懲戒免職せずに退職金を本人の意思で返納させることなどもおかしいと思う!!

 この問題をあいまいにさせたまま、もう、これで終わりにはしてもらいたくない!!

 この歴史認識を厳しく追及し、処分をはっきりさせてもらいたい!!

この人の発言は、若い人たちにも影響しているし、日本全体が右傾化している時期に本当に大切な問題だ!!

 アパグループの代表は安倍氏の後援会の要職を務めているので、その安倍氏の歴史観も追及すべきだ!!

 民主党の鳩山幹事長・浜田防衛相の本心も聞けたら聞きたいものだ!!

これだけ自衛隊が軍隊のようになっている以上、安倍氏などは憲法9条を改悪したいのだろう!!

 早く、日本が、本当に平和国家と言える日にしたいものである!!

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12月13日(土)「南京事件」の集会のお知らせ!!

航空自衛隊の論文問題が世間を騒がしていますが、この時期に日本の侵略の歴史を学ぶのもいいと思います。71年前の12月13日に日本軍は中国の南京に攻め入り陥落させました。そして、掃蕩と称して、あの南京虐殺事件が起きました。(虐殺がいつから始まったかはいろいろな説があります。)何万人殺されたかもまた、いろいろあって、研究者がいろいろと調べています。  12月13日(土)に以下のような集会があります。 関心のある方は足をお運びください!! 「南京事件71周年 12・13集会」 -過去と向き合い、東アジアの和解と平和を- ・日時 2008年12月13日(土)       14時~16時半 ・会場 明治大学リバティタワー3階  1032教室     JR・地下鉄御茶ノ水駅徒歩6分 ・資料代 1000円 ・プログラム  講演 野中広務氏(元官房長官・元自民党幹事長)     「戦争体験と歴史和解」(仮題)  対談 笠原十九司氏 能川元一氏     「かつて100人斬りが称賛された時代があった」  提案 尾山宏氏     「和解と平和のためのこれからの課題」  主催:南京事件12.13集会実行委員会/子どもと教科書全国ネット21  連絡先:tel03-3265-7606 fax03-3239-8590 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

憲法9条!!

昨日、野球観戦が終わってチャンネルを1チャンに変えたら、ドキュメンタリー番組をやっていた。それを見ていたら、何でも、アメリカがベトナム戦争当時海軍を中心に小型核兵器を搭載した軍艦が日本に頻繁に寄港していたと言う事実があったということだ。非核三原則を堅持していると何回も国会中継などで聞いていたが、だまされた感じだ。  今や、米軍は日本に積極的に軍事行動に誘っている。この流れをオバマ大統領は断ち切ってもらいたい!!  日本が米軍の基地化しつつあるようにも思える。横須賀の原子力空母の母港化、座間キャンプへ米軍の・・・司令部の移転計画などなど。  普段、基地問題などに関わっていないが、強い不安を覚える。 どうしたら、日本国憲法の9条が活きる時代になるのだろうか? 非武装・中立にはなれないものだろうか? 以前、石橋社会党委員長が勇気を持って言ったが、その流れはマイナーなのか? このまま、世界が軍拡競争を続ければ、いくら戦争をやっても勝敗はつかず、憎しみだけが残り、地球の環境はさらに加速度的に悪化し、生き物全体に影響するだろう!!  航空自衛隊に見る論文事件。自衛隊などにいればいかに強い軍隊になるかを常に考えるだろうし、過去にはそんなに悪いことをしていないとも言いたくなるだろう。日本を守るといって住民の権利を蹂躙することもあるだろう。  最後に守るのは国体護持位ではないだろうか。日本は過去起こったように荒廃するだけだ!! 地球の将来を考えると、非武装・中立で話し合いによる問題解決の方法を見出さないと、地球が壊れてしまう。 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

西武優勝おめでとう!!

野球の日本シリーズで西武が優勝した!! うれしい!!元来、野球などほとんど見ないが、巨人と対戦するとあって多少興味があった。  なんといっても、巨人はお金を使って有力選手をかき集めている感が普段からあり、好きではない。ラミレス、小笠原、李、谷、クルーンなどそうそうたるメンバーだ。  一方の西武は普段野球を見ない僕にとっては、知らない選手が多い。 メンバーを見ても日本人でがんばっている選手が多いのに驚いた。(3・4番が日本人とは驚いた!!普段、野球を見ないから全くの無知)   今回、西武は、シリーズを通して岸という投手は素晴らしいピッチングをしたし、中島、中村言う3番4番も本領を発揮した。  最終戦での、片岡選手の気迫ある走塁も素晴らしかったし、ボカチカの本塁打も奇蹟に見えた。  強力打線の巨人は、見ていて何かチームで一丸になるという雰囲気が、西武に比べてちょっと弱いのかなとも思う。スター選手ばかりいるからプライドも高いのではないのかと想像する。  その点西武は若いしそんなスター選手(西武の選手に失礼かな?)もいないからみんなでの意思疎通がよくできて、力を結集することができたのではないかと一人思ってます。  西武日本一おめでとう!! にほんブログ村 サラリーマン日記ブログ 50代サラリーマンへ

真の近現代史とは?

アパグループの懸賞論文に新に16人の自衛官が応募していることが分かり計94人が応募したという。これは明らかに組織ぐるみで取り組んだ現れであろう。 小松基地から60人以上という異例な事態だ。 田母神氏が航空自衛隊小松基地司令の時にアパグループの代表と知り合ったという。アパグループの代表は藤誠志というペンネームで歴史認識の著作活動を行っているという。  また、懸賞論文の審査委員長は、戦後の歴史教育を批判し続けている、渡部昇一氏だ。 空幕長という立場、文民統制下にある職責をまっとうするはずの人が、政府見解を逸脱した論文を書いたこと、また、組織的に民間企業の懸賞論文に応募するように働きかけたことも問題だ。  「真の近現代史観」・・・まともに考えれば、歴史を学んだ人が書く分野だと思うが、それがなぜ?多くの自衛官がその問題について書けたのだろうか? 自衛隊では深く近現代史でも学んでいるのだろうか。  それにしては、空幕長の書いたものはとてもまともに読めるものではない!! 今、歴史家が、心血を注いで書いた史実を、いとも簡単に否定する風潮がある。 確かな証拠も示さずに。  大手出版社が出す雑誌に「あの戦争は侵略ではなかった」と言うようなものが書かれていたり、そのような歴史書が書店に平積みされている光景を見ることが多い。  近現代史を史実から学びたい!! にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

オバマ大統領に期待する!!

オバマさんが大統領になった。オバマさんに期待するところは、世界からできるだけ戦争をなくすことだ!  アメリカはテロに対する戦争を、今展開しているが、それをできるだけやめてほしい!!もっと、違った方策でテロに向かい合ってほしいと思う。  根本の原因は何かを探り、冷静に対処してもらいたい!! 一般の住民が誤爆でたくさん死んでいるという事実を、きちんと見てもらいたい!!  戦争で物事を解決する時代はもう20世紀でこりごりなはずなのにまだ、世界では戦争が続いている。  オバマさん、米国民主党に期待したい!! 僕が、とっているものにインフォメーションとして次のような記事があったので紹介します。関心のある方は行ってみてください!!  「さらば戦争!映画祭 2008 -人間が始めたものは人間がやめればいいー」  日時:2008年11月15日(土)     10時~20時(開場9:40)  入場料:当日券2500円(一日通し券)  会場:発明会館ホール    銀座線「虎ノ門」駅3番出口 徒歩5分    TEL 03-3502-5499  上映作品:「靖国YASUKUNI」、「時代(とき)を撃て・多喜二」、「ヒロシマナガサキ WHITE LIGHT/BLACK RAIN」「早咲きの花」、「ハイナンNET短編映像」 等、お問い合わせ 03-5379-2607 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

イチロー選手と小室さん

マリナーズのイチロー選手が8年連続でア・リーグのゴールデングラブ賞を受賞したという。すごいことだと思う。  並みの人間なら一回受賞してその後はとれなくなっても不思議ではないと思う。それを8年連続で取るとは。普段から、練習に手を抜くことなくかんばっているのだと思う。勿論、才能が十分あってのこと。  自分の進むべき道をはっきりと認識して、よそ見をしない点もえらい。 自分の才能がどんなものかを自分で見極めて、自分の意思で人生を歩んでいるように見える。  私は真似できないが学ぶところは大きい。 音楽の事は分からないが、最近の小室さんの記事はどうして?と思わざる得ない。たくさんのミリオンセラーを連発して、巨万の富を手にしたというが、そこからが、イチロー選手と違っていたのではないか?  イチロー選手は自分の絶頂期でも自分を見失うことなく、次の自分の目指す目標に向かって練習している。  詳しくは分からないし、えらそうなことはいえないが、小室さんは十分な才能があったが、巨万の富を手にしたとたん自分の歩むべき道が見えなくなってしまったのではないだろうか。お金に目がくらんだのかな?私は味わったことが無いが。  イチロー選手のこれからの活躍と、小室さんがこれからどのような人生を歩むかも注目したい!! にほんブログ村 サラリーマン日記ブログ 50代サラリーマンへ
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15年戦争時、中国・日本で起こったことを書きたい。

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